New museum walk "Once Upon a Tide : Singapore's Journey from Settlement to Global City"(Feb Issue 2026)
01 Feb 2026
新ミュージアム散歩
「Once Upon a Tide : Singapore's Journey from Settlement to Global City」
開催期間:2026年10月9日(金)まで
現在、シンガポール国立博物館(NMS)では、シンガポール建国60周年を記念した特別展 「Once Upon a Tide: Singapore’s Journey from Settlement to Global City」を開催しています。本展では、海や川と深く結びついた島としてのシンガポールの歴史に焦点を当てます。
展示品の数々は、人・モノ・アイデアが行き交う歴史の中で、シンガポールが今日のグローバル・ハブとして形づくられてきた歩みを物語っています。物語性豊かなNMS独自の展示演出により、来館者は、まるでシンガポールが形づくられてきた歴史をたどるように、その変遷を体験することができます。地域と世界をつなぐ「グローバル・ハブ」へと発展してきたシンガポールの歩みを、この特別展でぜひご覧ください。

シンガポールが、かつて 「SABANA EMPORIUM(サバナ・エンポリウム)」 と呼ばれていたかもしれないことをご存じですか?
この名前は、1513年にドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミューラーが描いた地図に登場します。もとになったのは、2世紀のギリシャの天文学者プトレマイオスが書物に残した情報です。そこではマレー半島が「黄金の半島」を意味する「AUREA CHERSONESE」(地図右下)と記され、土地の豊かさを示していました。その南端に記された「Sabana Emporium」(Emporium=交易拠点)が、現在のシンガポールを指しているのではないかと考えられています。

16世紀以降になると、シンガポールはさまざまな名前で地図に登場します。たとえば、1628年に出版された中国の軍事書『マオ・クン地図』には「淡馬錫(タンマシー)」とあり、これは昔の呼び名テマセクを示しています。また地図の右側には、シンガポールの南(現在のケッペルハーバーの西側)にあった「龍牙門」という名の岩も示されています。

1819年にイギリスがシンガポールに港を開き、税のない自由貿易港が誕生すると、シンガポールは東南アジア各地とインド・中国・ヨーロッパを結ぶ中継地として発展していきました。川沿いには倉庫やショップハウスが立ち並び、物資の保管や取引が行われました。大型船は沖合に停泊し、小型船に貨物を積み替えて荷揚げを行っていました。
描かれた船を観察すると、どこの国から来たのかを示す手がかりを見つけることができます。赤い船首に目のような模様が描かれているのはシャム(現在のタイ)の船です。目の模様は、航海の安全を見守るためだと言われています。人々がオールをもって漕いでいる白い船は、中東の小型ボートです。大型船とシンガポール川の間を往復し、乗客を運ぶために使われていました。この絵の中で最も大きな帆を持つ船はイギリス東インド会社の商船です。このような大型船は貨物だけでなく、多くの乗客も運んでいました。

これらのスーツケースは、中国からシンガポールへ移住した人々によって使用されたもので、さまざまな社会階層の人々が船でシンガポールに来ていたことがうかがえます。19世紀半ばになると、裕福な階級の人々は豪華な船旅を楽しむようになり、革の装飾的なトランクや、装飾の施された竹製のチェストに荷物を詰めました。その一方で多くの移民たちは、ほんの数着の衣類と、わずかな寝具や食糧といったごく小さな荷物のみを持ってくるのが一般的でした。最も安いチケットを持つ旅行者は、船上で自炊をしなければならなかったため、米を持参していました。
シンガポールへやってきた初期の移民にとって、旅行用トランクやチェストは祖国から持ってきた唯一の思い出の品でした。そのため、到着後もこれらを家に保管し、身の回りの品々を収納して使い続けていたそうです。

1840年代以降、シンガポールに渡った多くの中華系の人々は、単身で労働者として来星しました。彼らは過酷な肉体労働に従事し、coolie(クーリー)と呼ばれていました。チャイナタウンには、coolie keng(クーリー間)と呼ばれる居住区が作られ、労働者たちは月1.5ドルから4.5ドルでその一角を借りて生活していました。部屋は木製の多段式ベッドで細かく仕切られ、ひとつのベッドを交代勤務の人とシェアすることもありました。リクショーと呼ばれた人力車を引くクーリーの1日の賃金は1ドル、そこから人力車のレンタル代20セントから30セントが差し引かれていました。
労働者として海を渡ったのは中国人だけではありません。シンガポールのインフラの多くは、インドと中国からの移民労働者によって建設されました。道路の補修や橋の建設といった最も過酷な肉体労働は、特に1825年から1873年の間に主にインド人囚人によって担われました。また、1920〜30年代に中国から移民したSamsui(三水)と呼ばれる女性たちも建設現場で働いていました。彼女達は特徴的な赤い頭巾をかぶり、祖国に仕送りするために懸命に働き、生涯独身を貫く人も多かったそうです。

この銅版画は、1835年に実際に起こった事件を描いたものです。道路建設のためジャングルを調査していた建築家ジョージ・D・コールマンとインド人労働者の一行がトラに襲われました。幸いトラは測量器に突進しただけで逃げ去り、誰も傷を負うことはありませんでした。当時のシンガポールはまだジャングルに覆われている場所が多く、トラは深刻な脅威でした。政府が高額の報奨金を設けたことで、トラ狩りが盛んに行われましたが、1930年に最後のトラが射殺されたと伝えられています。コールマンはシンガポール初の都市計画者であり、初代公共事業監督官として町の基盤を築いた人物です。この銅版画は、実際の衝撃的な出来事を記録すると同時に、植民地化と自然とのせめぎ合い、そしてシンガポールが世界経済へとつながっていく時代の象徴として描かれたのかもしれません。

現在のシンガポールの街並みや交通網は、実は50年以上前に立てられた都市計画「コンセプト・プラン」に基づいています。1971年に策定されたこの計画では、当時まだ存在していなかったチャンギ空港の場所や高速道路網、MRT構想、そして私たちが休日に訪れるイースト・コースト・パークまでもが描かれていました。驚くべきことに、半世紀以上経た今その多くが実現し人々に豊かな暮らしを提供しています。また、人口動態の変化など変わりゆく環境に合わせて計画自体も柔軟に変化し続けています。土地の限られたシンガポールが、未来を見据えて計画を立てるとき、常に問うのは「現在そして未来において、土地をいかに最善の形で活用すべきか?」という問いです。今日のシンガポールの発展は偶然ではなく、遠い未来を見据えた明確なビジョンと計画があったからこそ実現したのではないでしょうか。

今回の展示は、お子様も楽しんでいただける内容となっています。入り口付近には電子タグを内蔵したリストバンドが用意されています。それを使って会場内の質問に答えていくと、最後にアバターが現れます。皆様の回答に基づいたシンガポールの未来像がアバターのガイドと共にスクリーンに映し出される仕組みです。
この機会に、私たちが暮らすシンガポールが現在の姿に至るまでの歴史を、展示を通して体感してみてください。
文責 : ミュージアム日本語ガイドグループ 二澤幸代













