The Southern Cross 60th Anniversary New museum walk Batik Nyonyas Peranakan Museum (Feb Issue 2025)
01 Feb 2025
新ミュージアム散歩
プラナカン博物館 特別展「Batik Nyonyas:プラナカン女性3世代にわたる バティックの美と事業の開拓」(2025年8月31日まで)
文責・写真 ミュージアム日本語ガイドグループ 矢野美紀子
インドネシアのジャワ島では、古くから『バティック』と呼ばれるろうけつ染めが盛んに行われてきました。緻密で優美な文様が施されたバティックは、現在もインドネシアの誇るべき無形文化遺産として高く評価されています。
現在、プラナカン博物館で開催中の特別展では、1890年代から1980年代にかけて、ジャワ島で家族3世代にわたり芸術的なバティックを創作したプラナカン女性たちの生涯と作品に焦点を当てています。世界大戦やインドネシア独立戦争といった政治や文化が急速に変化する激動の時代、彼女たちはどのように女性起業家としてビジネスを築き、さらにはバティックの名匠へと成長したのか――その軌跡を、時代の流れとともに紐解いていきます。
ウィー家3世代のバティック
ここでご紹介するのは、インドネシア出身のプラナカン女性である1代目のウィー・ソン・キン夫人(Nyonya Oeij Soen King)、2代目の息子の妻ウィー・コック・シン夫人(Nyonya Oeij Kok Sing)、そして3代目の孫娘ジェーン・ヘンドロマルトノ(Jane Hendromartono)です。彼女たちは、ウィー家のバティック工房を3世代にわたって受け継いだ名匠たちです。
20世紀前半におけるウィー家のバティック、とりわけ1代目ウィー・ソン・キン夫人の作品は、非常に限られた数しかアート市場で公開されておらず、その全貌は長らく謎に包まれていました。しかし、2017年にご家族からプラナカン博物館へと寄贈された合計100点に及ぶ貴重なコレクションによって、これまでベールに包まれていたウィー家の卓越した芸術性と驚くべき職人技が明らかにされたのです。
プカロンガン
物語の舞台は、ジャワ島北部沿岸に位置するプカロンガン。この町は1850年代にバティックの生産地として台頭していきました。1890年代には首都バタヴィア(現ジャカルタ)や中部ジャワのスラカルタやジョグジャカルタ、さらにはスマランやラセムといった北部沿岸の港町の主要な地位を脅かし、島内屈指の生産拠点へと成長しました。王宮があった中部ジャワで作られたバティックは、茶褐色や藍色を基調とした伝統的な幾何学模様が特徴です。それに対して、プカロンガンにはジャワ人、マレー人、アラブ人、インド人、中国人、ヨーロッパ人など多様な民族のバティック工房が集い、伝統にとらわれない新たな表現を追求しました。プカロンガンのバティックは、華やかなブーケ(花束)の模様をはじめ、ヨーロッパの童話や蒸気船、飛行機といった異文化の要素を取り入れ、自由な発想で描かれています。こうしたデザインは、多文化共生と自由な創造力の結晶であり、プカロンガンのバティックを象徴しています。
手仕事へのこだわり
1代目ウィー・ソン・キン夫人(Nyonya Oeij Soen King)(1871〜1950)は、1890年頃から1925年頃にかけてバティックを製作しました。注文ごとに一点ずつ製作されるため、商業的な大量生産とは無縁で、特に裕福なプラナカン層に向けた特別なバティックでした。そのため、彼女の作品は表舞台にはあまり登場せず、博物館やその他のコレクションにおいても希少でした。彼女の作品はすべて天然染料で染められています。動物や花々といったモチーフが多く描かれ、それらのモチーフを中部ジャワの伝統的な幾何学模様と巧みに組み合わせていることで、独自の芸術性が見事に表現されています。
また、ウィー・ソン・キン夫人は「機械印刷のようにならないこと」にこだわり、色彩やモチーフの配置をあえて不規則にし、自由で即興的な表現を生み出しました。例えば、葉の色を半分は青、もう半分は赤にしたり、全体を赤や青に染めたり、あるいは全く無色にしたりと、その予測不可能な組み合わせは、彼女の深い芸術的感性を表しています。この手法は、後にビジネスを継承したウィー・コック・シン夫人や他のバティック作家たちにも大きな影響を与えました。彼女の芸術家としての非凡な才能は、作品の細部をじっくり観察することで初めて浮かび上がります。それは当時、彼女の顧客だけが味わえる贅沢なひとときでした……。
斬新な模様と万華鏡のような色彩
2代目のウィー・コック・シン夫人(Nyonya Oeij Kok Sing)(1895〜1966)は、1925年にはウィー家のバティック工房を引き継ぎ、その運営に乗り出していました。彼女は義母ウィー・ソン・キン夫人の影響を受け、高品質にこだわったバティック製作からキャリアをスタートさせます。ウィー・コック・シン夫人は、インドネシアで唯一、バティック作品にサインと共に「日付」を刻印した作家です。これは彼女がバティックを単なる工芸品ではなく、芸術作品として高く意識していたことを物語っています。
1930年代にヨーロッパから導入された化学染料を全面的に取り入れると、彼女のバティックはまったく新しいデザインの世界へと飛躍しました。そのデザインは心踊るような色彩と模様の大胆な組み合わせが特徴です。パステル調の淡い色彩をビビッドな色と融合させたり、葉の輪郭を蛍光ピンクやブルーで描いたり。背景には米粒や孔雀の羽、ボールのオーナメントといった斬新なモチーフがあしらわれ、そのデザインはまさに現代的で新鮮なものでした。1930年代後半には、彼女はプカロンガンを代表するバティック作家の一人として広くその名を知られるようになりました。
バティックの新たな時代へ
ジェーン・ヘンドロマルトノ(Jane Hendromartono)(1924〜1988)は、1940年代初頭から母に師事し徐々に共同製作を行ったのち、1947年にバティック作家としてキャリアをスタートします。戦後の混乱の中で急速に進展した脱植民地化運動を背景に、インドネシアが独立への道を歩んでいた時代です。
インドネシアの独立により、バティック産業は新たな局面を迎えました。初代大統領スカルノはインドネシア全体の民族意識を高めることを目的に、バティックを自由と統一のシンボルとして公式の場での着用を奨励しました。また、外国からの来賓にも広く紹介されました。1971年のオランダ女王ユリアナの国賓訪問の際、ジェーンは女王のためにバティックシルクのドレスを、夫のベルンハルト王子には世界自然保護基金(WWF)設立に敬意を表し、中央ジャワ宮廷の森林模様に象のモチーフを取り入れた特別なバティックシャツを贈呈しました。これにより、ジェーンの名声は国内外で高まりました。
1960年代からバティックは国民的なファッションとしてオーダーメイド服に用いられるようになり、やがてハイファッションの領域へと踏み出します。ジャカルタやジョグジャカルタを拠点とするデザイナーたちは、プカロンガンのバティックメーカーと連携しながら、インドネシアのオートクチュールの世界を発展させていきました。ジェーンもファッションデザイナーたちとコラボレーションを重ね、バティックの新たな可能性を追求しました。写真映えし、印刷広告にも映える、大きく躍動的なデザインのバティックを生み出し、その魅力をさらに広げていきました。
1970年代、観光客やコレクターの間で「伝統的な」バティックを求める外国市場が現れると、ジェーンは母や祖母のデザインを復活させ、独特で大胆な色合いで再構築しました。
こうして彼女は市場の変化に柔軟に対応し、さまざまなスタイルに挑み続け、バティックの魅力を新たな世代へと引き継いでいきました。
おわりに
ウィー家の工房を受け継いだ3世代の女性たちは、家族の伝統スタイルを継承するのではなく、それぞれが自分らしい道を切り開きながら、芸術とビジネスの調和を追求してきました。その結果、彼女たちはバティックの名匠として才能を開花させたのでした。
今回ご紹介したのは、ほんの一部に過ぎません。特別展の会場に展示される珠玉の作品たちには、時代の波を乗り越えたドラマが込められており、職人としての魂が息づいています。近くで見ることで作品に込められた想いを感じ取ることができるでしょう。また、バティックをインドネシアの象徴としてだけでなく、芸術遺産として奥深さを感じていただけるはずです。ぜひプラナカン博物館に足をお運びください。
◆プラナカンとは?
マレー語で「その土地で生まれた子」を意味します。14世紀後半以降、貿易で東南アジアにやってきた中国、インド、中東の商人と現地の女性との間に生まれた子孫を指します。彼らは、中国やインド、中東の父系の文化と、東南アジアの母系の文化、さらにイギリスやオランダといった宗主国の文化が融合した、華やかで独自のプラナカン文化を築きました。
◆名前にNyonyaが付いているのは?
プラナカン文化では女性を“ニョニャ (Nyonya)”と呼びます。この言葉は、インドネシア語やジャワ語で女性に対する敬称 (Mrs./Ms./Madam/lady)の表現としても用いられます。ここでの“Nyonya Oeij Kok Sing”は“ウィー・コック・シンの奥様(夫人)”という意味になります。
こちらのバティックは3代目のジェーン・ヘンドロマルトノの作品です。岩、ランタン、鳥や蝶で埋め尽くされており湖がある中国庭園をイメージして描かれています。彼女は母とも祖母とも異なるオリジナルのバティックを生み出しました。
写真でみますと少し地味にみえるのですが、実際にはとても華やかなところがお気に入りポイントです。こちらの作品はLiem Siok Hienと彼女の夫の名前が署名されています。ジェーンは時代によって署名を変えていましたので、バティックによってなんのサインが書かれているのか注目して見ていただく楽しみもあると思います。
(西村彩乃)
おすすめの作品は「Portrait of Ahok BTP」です。元ジャカルタ州知事のアホック氏をめぐる騒動をテーマにした作品です。中華系インドネシア人でキリスト教徒である彼は、州知事再選をかけた期間に冗談として言った内容(クルアーンを引用したもの)を発端に最終的に20ヶ月の禁固刑を科されました。老舗バティックメイカーの3代目ウィディアンティ・ウィジャヤが発表したこの作品は、非常に繊細な描写もさることながら、本特別展で扱われるインドネシアにおける宗教や人種について教えてくれる一枚です。
(森田恵莉華)
こちらのバティック、一瞥すると幾何学模様に見えてしまいますが、近づくと小さな生き物がたくさん描かれているのがわかります。蟹や虫といった、中国で縁起が良いとされる生き物の他、見慣れない四つ足の動物や少し変わった鳥など、どこかユーモラスな雰囲気です。
このバティックは今から100年ほど前に作られました。作者は、特別展のテーマとなっている3世代のバティック製作者の一人目の女性です。素朴な色合いと不思議な生き物たちで彩られた彼女のバティックから、お気に入りの一匹を探してみてはいかがでしょうか?
(深谷純子)
私のお気に入りは、1941年に母ウィー・コック・シン夫人と娘ジェーンが共同製作したバティックです。美しい色彩で繊細に描かれた花々に囲まれているのは、エンゼルフィッシュやウサギ、ゾウ、小鳥などの楽しい動物たち!ここに若きジェーン(当時16歳)のユニークな感性が溢れています。翌年の1942年から始まった日本占領下の苦難を思うと、穏やかな時間の中で母と娘が一緒にバティックを製作している、そんな平和な光景が胸に浮かび、じんわりくる作品です。
(矢野美紀子)
このバティックは、本特別展で取り上げられている3世代のプラナカン女性の2世代目であるウィー・コック・シン夫人の作品で、今から約90年前に作られました。左半分は伝統的なジャワの斜め縞模様に花、右半分はヨーロッパ風のブーケがあしらわれていて、同じ花モチーフですが異文化が融合したデザインになっています。彼女のバティックの特徴は精緻な模様と斬新な色使いで、なんと葉っぱは緑と水色!多くの色が使われていますが、色調が揃っているので全体的に調和していて素敵な一枚です。
(星川綾)
バティックには街ごとの伝統がありますが、このバティックは1930年代から1940年代にジャワ島のクドゥスという街で作られたものです。なんといっても細かく手書きで書き込まれた模様が圧巻です。背景にはイセンという細かい三角の模様がびっしりと書かれており、それ以外にも余白という余白に細かく模様が描かれています。あまりに繊細な模様からたくさん生産をすることができなかった稀少なものということですが、間近で見てみると納得!の1枚です。このクドゥスで作られたバティックに影響を受けてジェーンが作ったバティックも見応えがありますので合わせてご鑑賞ください。
(常盤美衣)
