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Letter from Clinic (Oct issue) 2023

20 Sep 2023

 

多言語使用(バイリンガル・マルチリンガル)と脳機能と精神症状について





言語聴覚士・公認心理士 鈴木利佳子


 


 多言語使用を脳機能の視点から研究したものは数多くあります。Cognitive reserve theory(認知予備力理論)では、より高いレベルの教育、複雑な実行機能を伴う職業、認知的に刺激的な余暇活動などの生涯の経験と知的活動が、認知予備力の要因となると言われています。より多くの予備力を持つ人は、持たない人に比べて、同じ程度の脳損傷後もよりよく脳が機能することが示されています。


 多言語使用は常に複数の言語使用をコントロールするため、脳の遂行機能が高められ認知予備力を高めると言われています。母語と第二言語は脳の中で言葉を貯蓄・使用するシステムや場所が異なっていると言われており、2つ以上の言葉を話すということは、常に脳内で「どの言葉、単語・文法を使うかな、相手は何を言っているのかな」とモニタリングし、選択し、制御しているわけです。


 数ある多言語使用と脳機能の研究の中で「多言語使用は認知症を予防する」という研究が報告されているのはご存知ですか?研究によると、話す言語数の多い人の方が加齢による認知機能衰退が起こりにくいという結果や、多言語使用者は同じ程度の脳萎縮があっても認知症の発現が4、5年遅いという結果が報告されています。システマティックレヴューによると、多言語使用の認知機能低下に対する保護効果の研究、認知症発症遅延効果の研究とも半数で肯定的な結果だったことが示されています。


 シンガポールで活躍されている日本人の方々は、日本語と英語、またはそれ以外の言語を自由に操ることのできるマルチリンガルの方々が多いのではないでしょうか?つまり認知予備力の高い方が多いと思われます。日常の言葉の使用が脳機能を高めて認知症を予防する効果があるなんて、とても素敵なことですね。しかし、マルチリンガルは脳機能にとって良い影響だけなのでしょうか?


 私は、シンガポールに来る前に、大学の研究室で認知症研究に携わっていました。研究室で行われた多言語使用(バイリンガル・トリリンガル)と認知症研究の中から、興味深いものを二つご紹介します。


 一つ目は日本人のブラジル移民高齢者に関する研究で、幼少期にブラジルに移民した高齢者を対象にしています。第一言語は日本語、第二言語がポルトガル語の高齢者です。認知症発症後の言葉の使いにくさ・理解しにくさは言語使用頻度と言語環境に関係し、さまざまなパターンを見せることが示されました。また、認知症重症度とともに日本語もポルトガル語も言語機能が低下しているものの、使用頻度が低く熟練度が低い第二言語は認知症発症より先に衰退が始まり、認知症の進行とともに第一言語も衰退していくことがわかりました。また、認知症のない群の言語機能と鬱症状について分析すると、第二言語の言語機能低下と抑うつの関係が示されました。


 二つ目は台湾における研究で、第一言語が台湾語、日本統治時代に日本語教育を受け第二言語として日本語、戦後第三言語として中国語を身につけたトリリンガルと、日本語教育をうけていない台湾語と中国語のバイリンガルの比較研究です。その中で、言語機能の低下が妄想を引き起こしたという興味深い研究があります。脳画像、認知症進行度、認知症症状、言語機能、個人因子を比較した結果、トリリンガル群は言語機能が低く、妄想スコアが高かったのです。認知症における妄想は、脳の機能障害に関係すると言われていますが、この研究では言語機能が妄想に影響した可能性が示されました。妄想が見られた症例は言語環境を調整したところ妄想が見られなくなったと報告されています。多言語使用者はアルツハイマー型認知症の進行に伴いlanguage mixing(言語の不適切な混同)を示す傾向があります。熟練したバイリンガルは最後まで残りやすい手続記憶システム注1、熟練度の低いバイリンガルは認知症進行に伴い脆弱になる宣言的記憶システム注2に依存して第二言語を使用すると言われます。そのため熟練度の低いバイリンガルの場合、認知症進行に伴い言語の混乱が起こり、誤解や不適切な感情が誘発されたと考えられます。言語機能低下と抑うつや妄想との関係が示唆された興味深い研究でした。


 私は言語臨床に長く携わってきました。多くの失語症の方が、言葉が不自由になったことで感じる悲しみややるせなさ、不安などを話してくださいます。また、お子さんの言語発達に関わっていると、言葉の発達とともに、自分の気持ちを言葉で表現できるようになり、相手が言っていることを理解できるようになり、それに伴い行動が落ち着き、様子が変化していきます。認知症の方々からは、言葉の衰退が鬱や物盗られ妄想や猜疑心妄想などの精神症状と関係していることに気づかされます。


 私は、シンガポールに来てから、英語でのコミュニケーションはなんとかできますが、相手が何を言っているのか十分に分からない不安、自分の言いたいことが十分に伝わらないもどかしさを感じます。健康体である私も、言葉が不自由なことによる不安や抑鬱感に悩まされることがあります。あらためて自分が今まで関わってきた、言葉が不自由になってしまった方々の気持ちを少し体験した、そんな気持ちになりました。


 私は多言語使用に憧れますし、世界の方々とコミュニケーションをとれたらどんなに素晴らしいことかと思います。と、同時に、「思考は言語」という言語臨床の基礎も思い出されます。思考を言葉で十分に表現できること、思考を言語で十分に理解できることはとても大切なことです。人は社会的な動物なので、思考を言葉で共有し、協力し支え合うことで生活しています。身近な人には言葉で自分の気持ちや思考を伝え、相手の言葉で相手の思考や気持ちを知り、共感したり、時には喧嘩したり、話し合いで折り合いをつけたり、言葉は人にとって、とても重要なコミュニケーションの道具となります。


 多言語環境のシンガポールにて、お子さんの言葉の発達に関わることが多い日本人会クリニックの言語臨床では、言葉の発達と行動、精神症状の関係の重要さを改めて感じています。


 第一言語をしっかりと育ててあげること、思考を言語化できる言葉の力を育ててあげること、相手の思考を言葉で理解できる力を育ててあげること、これが大切だと感じる今日この頃です。



1)体の動かし方や自転車の乗り方など技術や習慣的な行動を身体 で覚えるような記憶システムです。


2)エピソードや言葉の意味など言葉で記述できる記憶システムです。


 


参考:マルチリンガルブレイン特集より「マルチリンガルと認知症—ブラジルと台湾の研究から—.BRAIN and NERVE 鈴木利佳子、目黒謙一 73巻3号2021年3月1日発行 医学書院


プロフィール


鈴木利佳子(すずき りかこ)
2003年言語聴覚士、2021年公認心理師国家資格取得。言語聴覚士として日本の病院で約18年間勤務、2021年来星。趣味はダイビング、腹話術、旅行、観劇、音楽鑑賞。
専門資格:日本言語聴覚士協会認定言語聴覚士(言語発達障害領域、吃音・小児構音障害領域、失語・高次脳機能障害領域)、日本摂食嚥下機能障害学会専門療法士、日本臨床栄養代謝学会NST専門療法士、認知症ケア専門士


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