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Heritage Committee Newsletter (Oct issue 2023)

20 Sep 2023

ジョホール・バル日本人墓地


史蹟史料部


 シンガポール日本人墓地公園の約910基の墓碑については、史蹟史料部が1993年改訂版を発行した「シンガポール日本人墓地公園‐写真と記録 改訂版‐」をご覧いただければ、その詳細がわかると思います。


 その最後に、ジョホール海峡を挟んだ対岸ジョホール・バルの日本人墓地にも触れており、史蹟史料部は一度この墓地を訪れたいと考えていました。


 ジョホール日本人会の油井事務局長がシンガポール日本人会にいらっしゃった際に歴史のお話を伺い、この度ジョホール・バル日本人墓地をご案内いただける運びとなりましたので、今回ご紹介させていただきます。


 ジョホール・バル日本人墓地は普段は施錠されており、油井事務局長に開錠いただきました。国土の狭いシンガポールでは墓地の接収が進み、ただ一つ残る外国人墓地である日本人墓地公園も現状は2039年までの期限付きリースとなっており、その先の更新については未定ですが、ジョホール・バル日本人墓地は近隣にも他宗教の墓地がある場所で、特に移転や接収といったお話はないそうです。


 この墓地の発見は戦後の昭和37(1962)年頃で、この地に進出してきた日系企業TCMTEXTILE CORPORATION OF MALAYSIA)ユニチカ及び三井物産の出向社員がここに日本人墓地があることを聞き、ジャングルを切り開いて現在の状態に復元しました。発見時には約80基の墓碑があったようですが、シンガポールと同様にそのほとんどが木の墓標であったため、その後ほとんどは跡形もなく朽ち果ててしまい、現在、元来から残っているのは全部で7基となっています。


 その後ジョホール州各地(ムア、セガマット、バトパハ、コタティンギ)に分散していた日本人墓碑を、この墓地に移転したそうです。


 下台にプラナカンタイルに似た花飾りのタイルが施されたものは法□釋智眼信女位(□は号へんに乕)の墓碑で、4隅にコンクリート製の柱があります。


 柱の上にはフックが施されており、かつては柱を繋ぐチェーンがあったのではないかと思われます。


 墓地の門を入ってまず目に入るのは、故野村勇氏記念碑。大正6(1917)年10月に創立されたジョホール日本人会の初代会長を務められた方です。


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 こちらは太平洋戦争以前からジョホール・バル日本人墓地に元々あった墓碑です。


 


 周囲を頑丈なコンクリートで囲った3段作りの立派な墓碑には、法名釋教王應信士と書かれています。


 裏側に「昭和拾九年四月二日没俗名 石田彌助 享年五十二歳」、左側に「昭和二十年四月二日 妻 石田リク弟 石田栄吉 建之」とあり、石碑は御影石製で、おそらく日本から運んで一周忌を記念して建立したものと思われます。


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 その後ろ、敷地の一番奥に並ぶのが、1999年4月に州内各地から日本人墓地に移転した墓碑です。


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 こちらの記念碑と招魂碑は、州内コタテインギ郡トロ・スンガイにあった日本人建立のもので、2001年3月に在マレーシア日本国大使館の協力でジョホール日本人会が現在の場所に移転したのだそうです。


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 このひときわ立派な塔は真如親王供養塔です。真如親王は西暦860年(約1140年前)、平安京第2代天皇・平城帝の第三皇太子としてお生まれになりました。真如親王は広州を船出し、仏法の奥義を窮めるべくタイ国バンコクから天竺(インド)へ、渡航の途中で病を得られ羅越(マラッカ海峡の北岸)で薨去されました。供養塔は、1970年1月高野山親王院により総ての材料は日本より輸入され専門の石工により建立されました。


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 その横にある「倶会一処」碑は、1994年5月、無縁仏のために建てられた合同慰霊碑です。


 裏には「祖国に帰る夢叶わず、此処に眠る先達の困苦を偲び、マレーシアの発展及び日マ親善のために尽力されたその遺志を受け継ぐことを誓い、ここに鎮魂の碑を建立いたします。どうぞ安らかにお眠り下さい 1994年5月 在マレイシア日本国大使館 ジョホール日本人会」の文字が刻まれています。


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最後にご紹介するのは、横たわる御影石製の大きな「戦跡記念碑」です。


 こちらは昭和17(1942)年、ジョホール水道渡河作戦のあと山下奉文中将が海岸沿いのJalan Skudaiに建立したもので、署名もなされています。現在は文字の解読が困難な状態ですが、発見当初は注意深く読むと元の碑文が確認できたようです。


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 終戦直前の昭和20(1945)年6月ごろから、この碑の行方がわからなくなり、関係者が探していたところ、昭和57(1982)年10月ジョホール水道河畔のジョホール州リド地区で、現地の人が公園を建設中、二つに折れ地中に埋もれていたのが発見されました。


 この記念碑をどこで保管するかについては、ジョホール市当局と日本人コミュニティとの間で何度も話し合いが持たれたそうですが、最終的には、そっと静かに眠らせてやりたいという日本人コミュニティの想いが叶えられ、昭和58(1983)年9月州政府の許可がおり、ジョホール日本人墓地に搬入されました。


 発見時に二つに折れていた碑は、地面に横たえて碑文も自然に風化させるのがベストだという考えで、このような状態となっており、いつからか二つの御影石の間からは樹木が生えたそうです。


 ジョホール・バル日本人墓地の詳細は、ジョホール日本人会ウェブサイト日本人墓地 (https://japanclub.org.my/cemetery)をご覧ください。ご案内いただきました油井事務局長にお礼申し上げます。


編集・画像:日本人会 史蹟史料部  両頭真衣


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