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Heritage Committee Newsletter "Battle box" (Mar issue 2024)

01 Mar 2024

バトルボックス見学記


史蹟史料部


 2023年11月18日(土)史蹟史料部及び歴史研究班や歴史友の会、そして大使館より髙橋公使や日本人会理事3名にもご参加いただきフォート・カニング公園内にあるバトルボックス (Battle box)の見学をさせてもらいました。バトルボックスは第二次世界大戦時にシンガポール英連合軍が使用していた地下壕です。当日は、約30年前からバトルボックスを案内しているツアーガイドのテンテンさん(写真1)の説明も交え見学した内容をお伝えします。


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 まずは、バトルボックスがあるフォート・カニング公園について触れます。現在はシンガポールの象徴的な丘の上のランドマークであるフォート・カニング公園は、遡ること14世紀末にマラッカ王族の宮殿や墓所があったと言われています。イギリスが上陸するまでの400年間は「禁断の丘」と呼ばれ、一般人の立ち入りは制限されていました。1819年1月にイギリスの植民地時代に入ると、スタンフォード・ラッフルズが、ここに邸宅を構えていました。その建物は、代々シンガポール総督によって使用され「ガバメント・ヒル(Government Hill)」と呼ばれていました。1861年にこの丘が軍事的な役割に使用され始め砦が築かれると、初代インド総督チャールズ・ジョン・カニング子爵の名に因んで、この公園名が付けられたと言われています。19世紀に英国の植民地となってからは、その立地の良さから軍の司令部が置かれ、極東司令部とイギリス陸軍兵舎の本部として機能することになります。


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 バトルボックスは1936年にフォート・カニング・ヒルに建てられました。建設当時は建物の構造が見えていたと言います。戦況が進むにつれ、イギリス軍は日本軍から発見されないよう建物を土で覆い隠し、現在のような丘陵となりました。現在は、公園内の遊歩道の側に、ひっそりとバトルボックス内へ続く鉄の扉(写真2)が地上に表れています。


 1941年に太平洋戦争が勃発します。バトルボックスは、第二次世界大戦(1942年)の英国軍の地下指揮センター(写真3)として利用されます。当時は、マレーシアとシンガポールを守ったマラヤ司令部の本部の一部でした。


 1942年に日本軍がイギリス海峡植民地シンガポールに侵攻します。日本軍は約260艇に分かれてジョホール海峡を渡り、シンガポールに上陸すると、破竹の勢いで水源地や英軍の主要施設を占拠していきます。1942年2月15日にパーシヴァル将軍率(ひき)いる英連合軍は、日本軍に降伏することを決定します。降伏を決めた部屋「降伏会議室」がバトルボックス内にあります(写真4)。


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 その後、日本軍と英連合軍はフォード工場内において、正式に降伏交渉及び調印を交わすことになります(写真5)。英連合軍はバトルボックスを約70日間しか使用しなかったことになります。その間に描かれた、施設内のトイレの壁には、日本兵が戦闘機に乗っている落書きも残されていました(写真6)。その後、日本軍がバトルボックスを使用することになります。


 バトルボックスは2014年から2023年6月までシンガポール歴史コンサルタント株式会社(SHC)が管理し、当時に近い状態に改修・保存されております。現在は、バトルボックスは一部のみ一般公開をしています。軍事指揮センターや降伏会議室はもちろんのこと、秘書室、電話交換室、執務室、空調管理室、トイレ等も見学することができます。また、マレーシアからシンガポールへ進軍する日本軍のカラー映像も見ることができます。


 第二次世界大戦が終息を迎える1945年に、日本軍は英連合軍に降伏しシンガポールから撤退します。歴史のダイナミズムの一端を垣間見ることのできるバトルボックスは一見の価値がありました。今後もシンガポールについて学び、読者へお伝えしていきます。


 


文責:史蹟史料部 部員


歴史研究班 


シンガポール日本人学校小学部チャンギ校教諭 長浜洋平


写真5 出典 :https://insidestory.org.au/the-fall-of-singapore/


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