「できない」は誰にでも起こりうること ― 高次脳機能障害者支援法の成立をきっかけに ―(2月号 2026年)
01 Feb 2026
言語聴覚士・公認心理師 鈴木利佳子

2025年12月、日本で「高次脳機能障害者支援法」が成立しました。この法律の名前を初めて聞いた方も多いかもしれません。もしかすると、「自分には関係なさそう」と感じる方もいらっしゃるでしょう。
でも、少し想像してみてください。もし明日から、人の話が頭に入らなくなったら?言いたいことがうまく言葉にできなくなったら?簡単だった作業に、何倍もの時間がかかるようになったら?覚えられない、思い出せなくなったら?
それは、「怠けている」からでも、「努力が足りない」からでもありません。目には見えない、脳の働きの変化によって起こることなのです。
◆ 見えにくい困難があることを、知っていますか?
「高次脳機能障害」とは、事故や病気などで脳が損傷を受けたあとに、「考える」「覚える」「話す」「感情をコントロールする」といった力がうまく働かなくなる状態をいいます。交通事故や転倒、脳卒中などが原因で、誰にでも起こりうるものです。
見た目は変わらないことが多いため、周囲には気づかれにくく、誤解されやすいのが特徴です。「前はできたのに」と、自分を責めてしまう方も少なくありません。
私は言語聴覚士として、できないことそのものよりも、「わかってもらえないこと」に苦しむ方の姿を、たくさん見てきました。高次脳機能障害だけでなく、認知症もまた、誰もが人生の中で向き合う可能性がある「脳の困難」です。
◆ 子どもたちの「できない」にも、目を向けて
実は、こうした「できなさ」は大人だけの問題ではありません。子どもたちの中にも、似たような困難を抱えている子がいます。
たとえば、文字の読み書きが極端に苦手な「学習障害(LD)」の子ども。話を聞き取ることや気持ちの切り替えが難しい「発達障害」の子ども。そして、ことばでの説明が苦手な「言語発達症(DLD)」の子どももいます。こうした子どもたちは、「やる気がない」「ちゃんと聞いていない」と誤解されがちです。
でも、それは性格やしつけの問題ではなく、「脳の働き方の違い」によるものです。
身体障害も、発達障害も、学習障害も、言語発達症も、高次脳機能障害や認知症も、見た目は違っても、「できないことがある」という意味では根っこは同じ。人として自然な姿のひとつなのです。
◆ 法律ができた意味
今回の法律は、高次脳機能障害のある方を支える仕組みや、相談できる体制を整えるためのものです。
けれど、それ以上に大切なのは、これまで見えにくかった困難を、社会が「たしかに存在するもの」と認めたという事実です。
法律は、すぐに人の心を変える魔法ではありません。でも、社会の方向を少しずつ変えていく力はあります。
◆ 「知ること」から始めてみませんか?
世の中には、見た目では分かりにくく、周囲に気づいてもらいにくい困りごとを抱えて生きている人がいます。高次脳機能障害もその一つです。そして、私たち自身も、いつその立場になるかわかりません。だからこそ、「知らないまま」でいることが、誰かを孤独にしてしまうことがあります。
知ることは、誰かを責めないための第一歩。知ることは、想像する力を育ててくれます。そして、知ることが、理解につながり、助け合いの輪を広げていくのです。
最近では、「合理的配慮(ごうりてきはいりょ)」という考え方も注目されています。これは、困難のある人が、他の人と同じように生活や仕事、学びの場に参加できるようにするための配慮です。
たとえば——
・人前で話すのが苦手な人が、発表や発言の順番を後ろにしてもらえる
・手書きが難しい人が、タブレットやパソコンで記入・提出できる
・耳が聞こえにくい人が、口元の見える透明マスクで相手の話を理解しやすくなる
・長時間の会議や授業が負担な人が、途中で休憩を取れるようになる
・説明を口頭だけでなく、視覚的に理解できるような資料もあわせて用意する
・歩きにくい人が、エレベータを使って自由に移動できる、広い通路を車いすで自由に動ける
・新しい場所や手順に不安がある人が、事前に写真や説明を受けて安心できる
・周囲の音や動きに敏感な人が、静かな席や空間を選べるようになる
——そんな小さな工夫も、立派な合理的配慮です。
これは「特別扱い」でも「ずるいこと」でもありません。その人が本来持っている力を、きちんと発揮できるようにするためのサポートです。むしろ、誰にとっても働きやすく、暮らしやすい社会をつくる、大切な一歩なのです。
◆ 共に生きる社会を、ここシンガポールから
ここシンガポールは、多様な人々が共に暮らす、小さな国です。言葉も文化も異なり、「わからない」ことがあるのは当たり前。けれどこの国で働いていると、「みんな本当にやさしいな」と感じる場面に、よく出会います。
この小さな社会だからこそ、一人ひとりの思いやりがすぐに届き、やさしさが広がっていきます。「わかろうとする気持ち」があれば、社会は少しずつ、でも確かに変わっていくのだと思います。支援法の成立は、その変化への静かで力強い一歩と感じました。
障害があっても、なくても。誰もが安心して「助けて」と言える社会を。そして、自然に「手を差し伸べられる」社会を。ここシンガポールから、そんなやさしさの輪を広げていけたらと願っています。
高次脳機能障害者支援法案
https://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g21905010.htm
文責:鈴木利佳子












