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シンガポールと日本のアート教育 連載コラム③(11月号 2021年)

29 Oct 2021

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第3回 「シンガポールと日本の美術の教育計画(後編)」





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はじめに


 前回の記事で書いたとおり、シンガポールの子どもたちの絵を前にして、私はシンガポールの美術の特徴を感じ取ることが出来ませんでした。今思えば、当時の私は子どもたちの作品のどこに注目するべきかわかっていなかったのです。今回の記事で、シンガポールの美術教育の特徴を明らかにしたいと思います。


日本の美術の授業でやること


 日本の美術で扱う内容は学習指導要領によって定められています。以下の4つです。(小学校の場合)


・造形遊び


・絵や立体


・工作


・鑑賞


 


 美術といえば絵を描いたり工作したりすること、というイメージをもっている人が多いと思いますが、小学校の美術教育で一番初めにくるのが「造形遊び」という活動です。これは耳慣れない人も多いと思います。しかし、この造形遊びこそが日本の美術教育の特徴だといえます。造形遊びとは、たとえば、身近なものを新聞紙やビニールシートで包んで新しい形を見つける活動や、細長い材料(枝や割り箸など)をつなぎながら面白い形をみつける活動、透明カップに入れた色水をいろいろな場所において鑑賞する活動などがあります。学習指導要領には造形遊びの解説が以下のようにされています。


 想像したことをかく、使うものをつくるなどの主題や内容をあらかじめ決めるものではなく、児童が材料や場所、空間などと出会い、それらに関わるなどして、自分で目的を見付けて発展させていくこと(小学校学習指導要領 解説、p26、太字強調は筆者)


 続けて、「この造形遊びは、図画工作科の学びそのものであり」(同)全ての評価項目に深く関わるものであると、その重みが強調されています。また、絵や工作よりも先に造形遊びが記載されていることからも、その重要度がうかがい知れます。


創造性を育む方法 〜造形遊び〜


 この造形遊びの特徴は、創作のプロセスが普通に考えられているものと反転しているということです。普通、絵を描いたりものを作るときには、まず作者の心や頭の中に作りたいもののアイデアが浮かび、それを絵の具や粘土などの材料で表すことだと考えられています。しかし、造形遊びのプロセスはその逆です。まずは材料や空間に触れ、そうすることで作者の中にアイデアややりたいことが浮かんでくる、という順序になっています。創作の始まりには何を作るか決まっておらず、材料や空間と関わりながら、何を作りたいかを自分の中に発見する活動なのです。


 実は、このようなプロセスでものを作ることは、造形遊びだけでなく「絵や立体」「工作」においても推奨されています。例えば、日本の教科書にはこのような文言があります。「材料を画面の上においてみよう。形や色が組み合わさるとどんな感じになるかな。思いついたことを書き加えて絵に表そう」「ためしながらいいなと思う形をみつけよう」「(紙を)やぶいたかたちからあらわしたいことを思いつく」「(粘土を)にぎった形をみて、作りたいものを考える」。このように、まず材料に触れてから考えようという発想が随所に見られます。(いずれも日本文教出版株式会社発行の教科書「図画工作」より)


 この、予定していないもの、計画していないもの、想定外なものが創造性を生むというのが日本の美術教育の特徴と言えます。


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段ボールをおもいのままに組み合わせる活動(造形遊び)


シンガポールの美術の教育内容をみてみよう


 シンガポールの美術の教育計画の「内容」の項では次のように説明がされています。


・文脈


・作品制作の過程


・視覚的な効果について


・材料や用具


・美術における中心的な学習


 1つ目の「文脈」というのは、美術史や社会、芸術家、作品について学ぶことです。これが一番初めに来ているというのがシンガポールらしさを表しています。以下に見るようにシンガポールの美術教育は全体の流れ、プロセスをとても大切にするからです。日本の内容でいえば「鑑賞」に近いと思いますが、シンガポールはこれが最初に来て、日本は最後に来ている点が興味深い違いです。


美術における中心的な学習


 5つ目の「美術の中心的な学習」が美術の授業の内容について具体的に説明されている部分です。この部分が日本の「造形遊び・絵や立体・工作・鑑賞」と同等の箇所だといえます。


a.(全ての学年における)描画


b.(小学校4年次における)博物館学習


c.(全ての学年における)作品展示会


 日本のように工作や立体などという言葉が見当たらず、「a.描画」とだけあります。さらに、「描画は美術の基礎である」と説明されているところに日本との違いを感じます。先に見たとおり、日本の美術教育においては、絵を描くことは必ずしも一番初めに来るものではないからです。


 そして、シンガポールの小学校では4年生で 「b.博物館学習」が必修であり、事前の準備から事後の学習成果発表まで、教育計画に詳しく説明されています。また、全ての学年で 「c.作品展示会」を学校内外で行うことになっています。博物館学習で歴史や社会のことを学び、展示会で作品を発表する機会を経験するなど、美術を幅広くとらえ、教育していることがわかります。


ポートフォリオ


 また、シンガポールでは子どもが学習記録を保管していくことになっています。この、作品だけでなくワークシートやスケッチなど作業過程を示すものをファイルに綴じたものをポートフォリオといいます。このポートフォリオも学習の重要な一部として評価することが定められています。ここでも、シンガポールの美術教育が作品の完成だけでなく、制作のプロセスも重視していることがわかります。


好奇心を引き出す方法


 ここまで、美術教育の内容から両国の特徴を見てきました。日本の美術教育では創作の場面に焦点を当てていて、シンガポールでは歴史や社会の学習、作品の発表までより幅広い教育を行っていることがわかりました。さてもう一つ、好奇心を引き出す方法の違いについて触れておきましょう。学習者をどのように動機づけるかという点に関して、シンガポールの教育では inquiry based learning を推奨しています。inquiry based learning とは問うことをベースにした学習法のことです。教育計画には具体的な質問が例示されています。


「身近なところでアート作品が見られるのはどこですか?」


「アーティストが作った作品から、私たちはシンガポールについてどんなことを学ぶことができますか?」


「世界のアーティストが使う理論や手法は、どのように私たちのものの見方に影響を与えましたか?」


 inquiry based learning においては、問うことが子どもの好奇心を刺激し、自主的に学習に向かわせると考えられています。シンガポールの教育計画で美術が扱う範囲について説明されている部分では、最初に「見ること−問うこと」が挙げられています(Art Syllabus、p12)。美術において「見ること」や「問うこと」が学習の出発点であり、子どもを動機づけるもの、好奇心を刺激するものであると考えられているのです。それに対し、日本の美術教育では、「感性を働かせながら作品などをつくったり見たりすることそのものが、子どもにとって喜びであり、楽しみである」(小学校学習指導要領 解説、p15)という子ども観になっています。両国とも「見ること」は共通していますが、シンガポールでは「問うこと」、日本では「作ることそのもの」が子どもの好奇心を引き出すとみなされているという違いがあるのです。


おわりに


 ここまで、日本とシンガポールの美術教育の違いの大事な部分を書きました。細かな違いや、同じ部分もたくさんあるのですが、より重要だと思われるものにしぼってまとめました。思い切って言えば、日本では感性を重視し、シンガポールでは過程を重視する、ということになるでしょうか。今なら、私がシンガポールの子どもたちの絵を展示したときに、その特徴が捉えられなかった理由がわかります。シンガポールの美術は過程を大事にすることがその特徴なので、完成した作品を見るだけではそれがわかりづらいのです。そのことがわかっていれば、展示の仕方を工夫できたのですが、当時の私は勉強不足でした。


 さて、12月からジャパン・クリエイティブ・センター(JCC)にて「日本の図工教育とシンガポールのアート教育」と題した展覧会を行います。ここまで述べてきたシンガポールと日本の美術教育の考察をもとに、子どもたちの作品を並べて、両国の美術教育の特徴や違いを展示する展覧会になります。両国の子どもたちが同じテーマで描いた絵も展示する予定です。日本とシンガポールの美術教育をより深く理解する機会になるはずです。読者の皆様、ぜひ足をお運びください。展覧会概要に関しましては、本誌18ページのイベント情報をご参照ください。


◆inquiry based learning という言葉は探究型学習と訳される事が多いのですが、日本語で探究型学習という場合は必ずしも「問うこと」を焦点化しているわけではなく、誤解を避けるために英語のまま記載しました。


 


 


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小林 智 プロフィール
シンガポール日本人学校小学部 チャンギ校勤務。図画工作科担当。高校の美術教師を経てシンガポール日本人学校中学部の美術科担当。2019年から現職。


 


文責:シンガポール日本人学校小学部チャンギ校教諭 小林 智
写真 : 小林 智

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