シンガポール人物伝 part 3

彼を語るに“シンガポールの建設者”だけでは、もの足りない。
東洋の改革を願い、東南アジアの素地を作った。

トーマス・スタンフォード・ラッフルズ
Sir Thomas Stamford Raffles
<1781年~1826年>


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1817年「ジャワ誌」刊行後、
爵位を受けた時の肖像画。原稿を
手に持ち、窓の外はジャワの風景が
見える。ラッフルズ36歳。
(写真提供:シンガポール国立博物館)

ラッフルズの功績については、もはや誰もが知るところであろう。簡単にいえば、1819年、イギリスの東インド会社の社員であったラッフルズが、ここを見出し、自由貿易港としての下地を整えた。もう少し補足するなら、東洋研究に熱心で、ボロブドゥール遺跡やラフレシアの花を発見した人である。

しかし、ラッフルズをそれだけで語りきるには、しのびない。それらの功績は氷山の一角でしかない。彼に関してはさまざまな評価があるが、とはいえ彼の理想と情熱、先見性、異文化への興味と理解がなければ、その後のシンガポールの発展はなかったであろう。

彼は、努力の人である。一介の臨時雇いから、自分の才覚だけで破格の栄進をとげる。健康に恵まれず、家族の不幸が続き、会社からは不当な評価を受けてもなお、彼は逆境にくじけず、自分のなすべきことをし、たゆまない努力を最期まで続けた。

どんな栄誉にもおごらず、自分を甘やかさない生き方に、今こそ多くのことを学びたい。

 

貧しい家に育つが、独力で学び続けて、念願の東洋へ赴任

◆ 勉強は自分次第。努力すれば独学でできる

1781年7月6日、ジャマイカ沖を航行中の船上で、男児が生まれた。トーマス・スタンフォード・ラッフルズ、彼の生涯は洋上で始まった。父は船長であったが、家は貧しく、ラッフルズに満足な教育を与えられなかった。彼は学校を退学させられ、東インド会社の臨時社員として働くことになる。1795年、彼が14歳の頃である。

2年後に父が亡くなり、ラッフルズはわずかな給料で家族の面倒を見ることになる。しかし彼は、学問への思いを捨てきれず、昼は働き、夜はすべての時間を勉強に費やし、独学を続けた。同年代の少年たちが、学校で教えられなければ分からないことでも、努力すれば自分で理解できることを悟った。毎日8時間、研究か読書か執筆に当てることを自らに課し、夜遅くまで勉強した。

彼の並々ならぬ勤勉さが、注目されないわけがなかった。19歳のとき正社員の欠員募集があり、多くの有力候補の中から、特別な後ろ盾ももたないラッフルズが選ばれた。さらに1805年には、ペナン島の書記補に抜擢される。ラッフルズ24歳、東洋へ赴くことは彼自身の希望であった。この赴任にあたり、彼はかねてから好意を寄せていた女性、オリビアと結婚する。10歳年上であったが美しく賢明で、ラッフルズの活躍を陰で支えた最初の夫人である。


◆ 1805年、ペナンへ。船上でマレー語を修得

結婚後まもなく夫人とともにペナン島へ向かい、その5カ月の航海の間もラッフルズは勉学に励み、まずマレー語を修得する。当時、東洋語の中で最も役に立つものとされながら、他の社員は誰も勉強しようとする者はいなかった。

語学だけではない。赴任地で暮らす西洋人のほとんどは、東洋の文化、歴史、美術、宗教、植物、動物などに関心を示さなかった。ゆえに、イギリスが東洋に出て200年がたっていたが、当時の東洋に関する知識、文献は乏しく、まだ何も分かっていない状態であった。

知的探求心旺盛なラッフルズにとって、ペナンの風物は新鮮な驚きに満ちていた。彼は仕事のかたわら、すぐに東洋研究に取りかかる。変わり者扱いされたが、マレー語を駆使し、翻訳までこなす彼の書記官補としての仕事ぶりは賞賛され、1807年には第一級の書記官となった。

26歳にして異例の出世である。知識豊富な彼なくしては業務が成り立たないほど重要な存在となっていたが、同時に周囲からねたまれ、耐えがたいほどのいやがらせを受けることになる。さらに激務による過労で、ラッフルズは健康を著しく害していた。心血を注いで彼は努力したにもかかわらず、ペナンの経営はうまくいかなかった。そして本国の東インド会社の財政は苦しく、ひっ迫した状態であった。


ミントー卿 「ラッフルズは、きわめて賢明で、有能で、積極的で、明敏な男である」

◆ マラッカ~ジャワへ、英が東洋の制海権を握る

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マラッカも、ラッフルズに縁深い町である。昔から王国の都であり、東西貿易の拠点として大いに繁栄してきたが、17世紀にはオランダが占拠。貿易に高税をかけて利益を独占してきたが、1795年からイギリスが領有していた。しかし、ここもペナン同様に赤字経営であったため、東インド会社はマラッカの撤退を決め、城塞や町機能を破壊しつつあった。

1808年、ラッフルズは病気の療養にマラッカに来ていた。ここでマレーの王族文化や歴史に触れ、深く感銘を受ける。マラッカの破壊に対して心を傷め、会社の取締役会にその政策を批判した長い手紙を送る。彼はマレーの文化と人々の特異性、マラッカの重要性とその保持を書き連ねて訴えた。その結果、マラッカは全破壊から免れた。

ラッフルズに処世術などという感覚はなかったであろう。彼にとっておかしいと思うことを、率直に意見することは普通のことであった。会社の利益のみしか見ていない本国の取締役会の方針と、現地にいて、その地の文化を尊重する彼の意見は、この頃からかなり食い違っていた。

そんな彼を信頼して強力に支持したのが、同じ会社のインド総督であった、ミントー卿である。ミントー卿も、東洋文化に造詣が深い人であった。ミントー卿の後ろ盾を得て、ラッフルズは1810年、マラヤ総督代理に任命される。その目的は、当時オランダ領であったジャワの占領であった。

ラッフルズとミントー卿は、東インド会社の窮状を救うためには、インド~マラッカ海峡~ジャワ海域~中国と、東西交易ルートの覇権を握ることだと考えていた。そのためにもジャワは需要な拠点であった。かつての覇者オランダは、ナポレオンの台頭でフランスの支配下となっており、侵攻するには絶好の機会であった。取締役会とは意見をたがえていたが、ラッフルズはその遠征の準備と工作に奔走する。


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ラッフルズの直筆の手紙。
几帳面な彼の性格がうかがえる
(写真提供:シンガポール国立博物館)
●「シンガポール博物館」には、
ラッフルズにまつわる貴重な
展示がたくさんある

1811年、イギリス軍はジャワのバタビア(ジャカルタ)を占拠。ラッフルズはジャワ副総督となり、この島の統治を任された。彼はすぐに土地改革や行政改革などを行い、さらに福祉や貿易政策にも取り組んだ。


◆ ジャワ副総督に昇進。ジャワ研究に没頭する

ラッフルズのジャワ統治は1811~1816年まで、4年半続いた。すでに6年間の東洋勤務が続いた後であった。当時は東洋の病気の原因や治療法がほとんど研究されていなかったため、赴任地では多くの人が亡くなり、健康を害した家族や子供も、絶えず本国に送還されていた。

ラッフルズも精力的に仕事をこなしながら、常に病との闘いであったが、なによりも彼を苦しめたのは、この間に彼の大切な人たちがこの時期、次々と亡くなったことである。まず、東洋研究の先達でもあった親友、ライデン氏が亡くなり、公務においてラッフルズを支持し続けた有力者、ミントー卿も亡くなる。さらに賢夫人の誉高かった最愛の妻、オリビアもついに熱病に倒れ、彼は失意のどん底だった。

そんな中、唯一の慰めとなったのがジャワの研究であろう。彼の興味は、植物学、動物学、歴史学などと多岐にわたり、私財を投じて、優秀な博物学者や考古学者などを雇った。彼らとともに探検隊を組織し、原住民の人々に会い、多くのものを記録し収集した。研究への情熱こそが、辛うじて彼の健康と精神を支えていた。

 

ラッフルズの発見 ①

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世界最大級の仏教寺院 「ボロブドゥールの遺跡」

インドネシア・ジャワ島中部にある大乗仏教の石造遺跡。ユネスコ世界遺産。8世紀半~9世紀に、シャイレーンドラ朝が建てたとされる。王朝滅亡後、久しく忘れ去られ、密林の中に埋もれていたが、1814年にラッフルズと、オランダ人技師コルネリウスによって森の中で見つけられ、その一部が発掘された。


東洋事情に明るく、はるか日本までも見通していたラッフルズ

◆ 日本貿易を計画、ジャワでのさまざまな試み

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ジャワ統治時代のラッフルズは、実は日本にも縁があり、親日派といっても過言ではない。上記の日本に対する評価は、ラッフルズが1815年に行った演説の中の言葉である。鎖国時代の日本を遠くからながめ、日本を進んだ国とみて、近代化を予見した、おそらく最初の西洋人であろう。

彼は日本との貿易を計画し、1813~1814年の間に計3回、長崎に使節団を送っている。その内容は、貿易はもとより、日本に開国を要求するものであった。しかし、交渉には至らず失敗に終わる。というのもイギリスは、その3年前に長崎で「フェートン号事件」を起こしており、対英感情は悪く、オランダ商館の妨害もあった。

日本に初めて開国を要求した人といえば、1854年の黒船のペリー(アメリカ)とされているが、その40年前にラッフルズは日本に注目し、その利益を見越していた。その先見性には驚かされる。しかも、ペリーは大砲で威嚇しながらの外交であったが、ラッフルズ使節団はあくまで日本を刺激しないよう、終始穏便にはたらきかけ武力で迫ることはなかった。オランダ商館の工作によって日本側も長崎で秘密裏に対応したため記録は残っていないが、ラッフルズ自身の記述とオランダ商館担当者の回想録によって明らかになっている。


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シンガポール川沿いにある白いラッフルズ像

日本貿易計画も含め、ジャワではさまざまな試みを行っていたラッフルズだが、その立場は決して安泰ではなかった。彼を全面的に支持していたミントー卿が亡くなり、東インド会社の取締役会は、ジャワの経営が赤字であることが明らかになると、ラッフルズにますます批判的となり、彼は孤立するようになる。いかに人道的な改革を行おうと、利益を生まないジャワはお荷物であり、取締役会は再びオランダに返還するつもりであった。もちろんラッフルズは反対していた。

しかし彼は、別のことで同僚に不当な告訴を受けており、疑惑の人物として、ジャワ副総督を解任されてしまう。妻オリビアの突然の死も耐えがたく、彼の健康状態も悪化していたので、一度イギリスへ帰ることになる。

11年ぶりに帰国するラッフルズの船には、文献をはじめ、彫刻、織物、植物、動物、昆虫、果物、民芸品など、長い間収集してきた貴重なコレクションが満載されていた。

 

◆ 「ジャワ誌」を著し、学者として有名になる

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ラッフルズの2番目の妻、ソフィア夫人
(写真提供:シンガポール国立博物館)

1817年、帰国後すぐにラッフルズは、研究の成果を「ジャワ誌」として著す。英名で<The history of Java>のタイトルであるが、その内容は単なる歴史的記述とどまらず、自然、風土、社会制度、文学、音楽にいたるまで広範囲にわたり、上下巻で一千頁を超える大作である。 刊行後、貴重な文献として高く評価され、このことによりナイトの称号(Sir <卿>)を授けられた。彼は一躍名士の仲間入りを果たし、王室の知遇を受けるようになる。

一介の臨時雇いの身分から破格の栄進といえるが、ラッフルズ自身はなんら奢るところはなかった。不当な告訴の一件も解決し、ラッフルズの身の潔白が証明され、新たにベンクーレン副総督に任命された。これを機に2番目の妻ソフィアを迎え、彼女とともに再び東洋へ向かうことになる。すべてが順調で明るい兆しであったが、健康だけは容易に回復しなかった。それでも彼は東洋に行くことを強く望み、自分の使命は東洋にあると信じていた。

 

ラッフルズの発見 ②

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世界最大の花「ラフレシア・アーノルディ」

東南アジア島嶼部とマレー半島に分布するラフレシア科ラフレシア属の全寄生植物(根も茎もない花だけの寄生植物)。中でもラフレシア・アーノルディの花は直径90cmにもなり、世界最大の花として知られる。1818年、ラッフルズとアーノルド博士がこの花を発見。二人の名前にちなんで命名された。咲くまでに約1年かかり、咲いたら1週間ほどで終わる。腐臭を発し、ハエが花粉を運ぶ。


自由な港、シンガポールの発展を夢見て

◆ 1819年1月、シンガポールに上陸

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初代駐在官、
ウィリアム・ファークァー
(写真提供:シンガポール国立博物館)

1818年、ベンクーレンに到着。彼の使命は、ジャワの代わりとなる新たな拠点を作ることであった。ペナン~マラッカにつながる貿易港として、マラッカ海峡の東の入口に近いところ、マレー半島先端にある島の一群を探索していた。

ラッフルズは、当時無名に近い漁村、シンガポール島に目をつけ、「リオウ(ビンタン島)を凌ぐ便宜性と支配力を有している。南岸の沖にわたる数個の小島は格好の碇泊地と港を形成している」と会社に伝え、すぐにシンガポールへ向かった。

1819年1月29日、シンガポール川の河口付近に上陸。彼はここにオランダ人がいないことを確かめ、この地の酋長(テメンゴン)を通して、この地を支配するジョホール王国の王(サルタン)を新たに擁立し、かなり強引な形で英国商館建設に関する協定を結んだ。さらにラッフルズは、シンガポールを自由貿易港にすることを宣言し、奴隷貿易の廃止、賭博、阿片の一掃など、理想の港町を目指して、さまざまな指示を出した。

このシンガポール始まりのいきさつは、機を見るに敏なラッフルズの独断専行であった。彼は、会社の方針を逸脱していることは承知であったが、シンガポールはイギリスにとって最後の切り札になると思っていた。船による往復書簡で会社の承諾を待つ猶予はなく、すべて自らの責任で行動するほかなかった。よって会社には事後報告となった。ラッフルズは、シンガポールの初代駐在官に、ラッフルズと共に上陸した、ウィリアム・ファークァーを任命し、すぐにシンガポールを離れた。事実、ファークァーが開発のすべてを担った。彼はラッフルズの理想論だけでは解決できない現実の問題に追われた。


◆ 3人の子を失う。シンガポールに望みを託し帰国

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ラッフルズの考えをもとに描かれたシンガポールの港町
プラン(1928) 民族によって住むエリアを分けている
(写真提供:シンガポール国立博物館) 画像を拡大

ラッフルズはベンクーレンに戻り、1822年まで過ごす。4人の子供に恵まれ、激務からも離れ、静かな生活を送ったため、健康も回復した。家ではオラウータンを飼い、植物園も作り、研究に没頭していた。彼の人生で最も幸福な時期であっただろう。

しかし、徐々に不幸の波が襲う。幼い4人の子供のうち3人が、次々と病気で亡くなった。そのショックで彼も夫人も重病になった。気が狂わんばかりの頭痛に悩まされ、彼はすべてに気力を失い、ただひたすら帰国を願っていた。

ラッフルズは最後にシンガポールを見て帰ることにしていた。3年ぶりの来訪で彼は、「世界のどの土地よりも活気あふれる光景」を目の当たりにする。シンガポールの急速な発展ぶりに喜ぶが、ファークァーのやり方に満足できなかった。ラッフルズは、住民の秩序維持を優先して、町づくりの方針を練り直した。文化や教育にも力を入れ、植物園、博物館の計画はもとより、彼自身も多額な寄付をして、マレー語による学校「シンガポール学院」を創設し、サルタンモスク建立にも協力した。

 

◆ 相次ぐ不運。しかし死の直前まで研鑽を積む

1823年、ラッフルズは盛大に見送られ、帰国の途についた。彼がシンガポールを訪れたのは2回だけであったが、そこに近代化の理想を描き、その基礎を固めたことは確かである。しかしシンガポールは、取締役会やイギリス政府にはまだ正式に認められていなかった。彼の業績を賛辞するどころか、苦々しく思い、疎んじていた。

さらに不運なことに、1824年の帰国時にラッフルズが乗った船が火災となり、長年かけた研究の成果や貴重な資料、コレクションなどすべてを失った。しかし、どんな悲惨な状況下であっても、彼はすぐに気をとり直し、自分のなすべきこととして再び研究を開始した。幾何学や論理学、ラテン語やヘブライ語なども学んでいた。ただ病状だけは日々悪化していた。

1825年には、ロンドン動物学会を設立し、初代会長となり、「ロンドン動物園」の開園に尽力する。

1826年、脳腫瘍による発作で亡くなる。享年44歳。シンガポールを去ってからわずか3年であった。


◆ 東インド会社の仕打ち。妻ソフィアの「回想録」

ラッフルズが死ぬ前、1924年の英蘭同盟によって、シンガポールは正式にイギリスの海峡植民地となり、東インド会社に利益を生み始めていた。しかし、会社はラッフルズに褒章を出すどころか、シンガポール建設の必要な経費など含めて、彼に対し約2万2千ポンドもの巨額の返済を要求する。ラッフルズは全財産を支払っても足りず、彼の死後も会社は、妻ソフィアに遺されたわずかな資産も取り上げて回収した。

そんな夫の名誉を回復するべく、ソフィアは1830年、「回想録」を出版する。それによって、一部の学者が調査をはじめ、ラッフルズの人物とその業績が明らかになったのである。



<参考文献>

●「ラッフルズ伝―東南アジアの帝国建設者」 (信夫清三郎著)

●「ラッフルズーその栄光と苦悩」 (M・コリス著/根岸富三郎訳)

●「アブドゥッラー物語」 (アブドゥッラー著/中原道子訳)

●「海の帝国」 (白石隆著)

●「マラッカ物語」 (鶴見良行著)

●「努力と犠牲の人~シンガポール建設者ラッフルズ」 (村松良彦/南十字星10周年復刻版<1975年5号>)

●「ラッフルズと日本~教材・日星関係史」 (小林正弘/南十字星20周年復刻版<1983年5号>)