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↑1849年、中国人通訳「林阿多」を名乗って日本に来た時、日本人に描かれた音吉の肖像。 音吉のイメージを伝える稀少な記録である。 (国立公文書館蔵) |
音吉は尾張出身の水夫で、船の遭難による漂流民であった。漂流によって海外に出て、その後日本に戻って活躍した人といえば、「ジョン万次郎」や「ジョセフ彦」を思い出すが、彼らはひと世代後の人である。 鎖国下の日本に帰れなかった音吉は、異郷の地で暮らす他、道はなかったのだ。 |
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1862年、ラッフルズが港を開いて約40年後のシンガポールに、日本人として初めて定住した人がいた。「音吉」、またの名を「オトソン」。日本では江戸末期、尊王攘夷が台頭する幕末に、彼はここで事業を営み、オーチャード・ロードの家に住み、家族と共に豊かに暮らしていた。シンガポールの前は上海にてイギリスの商社につとめ、イギリスの軍艦で通訳として長崎にも訪れている。 鎖国下の日本を外から見つめつつ、異郷の地に根をおろし、自己の才覚で、すでに国際人として活躍していた音吉。いったい音吉とはどんな人物なのだろうか。今も昔も彼の名が、歴史の表舞台に出てくることはないが、開国、維新へといたる日本に、彼が与えた影響は決して小さくはない。そして現代においても、音吉の波乱万丈の生涯は、私たちに何かを訴えて止まない。 |
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1年2カ月の過酷な漂流の末、世界を一周 音吉(乙吉とも表記される)は、愛知県知多郡美浜町小野浦生まれ。彼は14歳ぐらいの時、見習いの水夫として千石船「宝順丸」に乗り込むが、遠州灘で遭難。以後1年2カ月の間、太平洋を漂流する。この「宝順丸」漂流に関して残された記述はないが、1年以上というのは日本の漂流史上でも最長クラスである。この時代の他の漂流記録からもうかがえるように、長い漂流生活は過酷で、凄惨を極めるものであった。 米と水は確保できたとしても、新鮮な野菜がとれないと壊血病という恐ろしい病気にかかる。また1年以上も大海原をあてどなく漂うことは、よほど屈強な精神でなければ、最後まで望みを捨てずに生きることはできない。「宝順丸」の乗組員14人も次々と亡くなり、辛うじて生き残ることができたのは、岩吉、久吉、音吉の3人。最年少は音吉であった。 1833年、3人は北米ワシントン州ケープ・アラバのインディアン居住区に漂着した。そこで生活するうち、イギリスのハドソン湾会社に発見され引き取られる。当時の太平洋は、航路がほとんどない未開の海で、北米西海岸もまだアメリカ合衆国に属していない未開の地。そこへ、はるか彼方の神秘の国・日本から、太平洋を横断してやってきた3人の漂着は、当時のイギリス人にとっても衝撃的な事件だったようだ。 |
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イギリスの保護のもと、3人は日本への送還を約束されたが、ほぼ世界一周の長い旅、かなり遠回りをして送られることになる。フォート・バンクーバー、ハワイ、南米をまわってロンドンへ。ロンドンでは1日だけ上陸が許されたため、はからずも彼らはイギリスに上陸した初めての日本人となった。 1835年、さらに南アフリカ、インドをまわり、マカオに到着。日本を目前にした3人は、さらにここで足止めを食らうことになる。当時のイギリスとアメリカは、漂流民の送還を口実に、日本に開国、開港、通商を求めるべく画策しており、彼らは両国の間で翻弄されていたのである。 |
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世界初の和訳聖書に協力する 1836年、帰国の目処がたたないままマカオにいた時、音吉ら3人は、ドイツ人宣教師ギュツラフのもとに預けられていた。ここで彼らは期せずして、後世に残る仕事を行っている。ギュツラフの長年の願いであった、聖書の日本語翻訳に参画するのだ。すでに彼らは長い旅で英語に慣れ、特に語学の才に長けた音吉は、この翻訳でも頼みにされたようである。 1年がかりで完成したのが日本語版「ヨハネ福音書」であり、現存するものではこれが世界最初の和訳聖書とされている。「ハジマリニ カシコイモノゴザル」で始まるカタカナ文には翻訳の苦労がしのばれる。 当時の日本はキリシタン禁止であり、音吉ら3人にとってこの仕事は、帰国後の生死にかかわる問題であった。しかし、ギュツラフの熱意に押され訳していく中で、キリスト教の教えにも興味を持ったものと思われる。そして音吉は後年、クリスチャンになっている。 また、この和訳聖書は、マカオで翻訳原稿が完成した後、シンガポールで印刷、出版された。その翻訳本を乗せた船で、音吉らはようやく帰国の途につくことになる。 |
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ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。コノカシコイモノワ ゴクラク。 <現代訳:初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった> |
↑1837年、音吉らを乗せて日本に来航した時のモリソン号 |
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漂流して外国に生き延びただけの人ならば、他にもいたであろう。 しかし音吉が偉大であったのは、苦難の状況にも折れることなく道を開き、さらに異国にて為すすべのない漂流民を保護し、支えとなり、帰国の手助けをした。 自分の持てるものを惜しみなく与え、その時々にできることを精一杯やった。 国外に出た日本人に対しても、先達の役割を果たすことを自らに課し、その結果として自身は知らずに、日本の近代化に貢献したのだ。
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モリソン号事件、悲しみの中で帰国を断念 マカオに着いて1年半以上たった1837年7月、音吉らはアメリカの船で、実に5年ぶりに日本へ帰ることとなった。音吉ら3人と、薩摩の漂流民4人を乗せたアメリカの商船モリソン号は、漂流民送還と日本との通商、キリスト教の布教をもくろんで、江戸に近い浦賀に向かう。 しかし運命は残酷であった。日本は彼らを受け入れないどころか、いきなり大砲で砲撃する。鹿児島湾にも向かうが、ここでも同様に撃退される。有名な「モリソン号事件」である。 仔細にいえば、これは鎖国政策によるもの(鎖国下でも長崎では漂流民を受け入れていた)ではなく、当時新しく施行されたばかりの「異国船打払い令」によって、非武装であったにもかかわらずモリソン号は砲撃されたのだ。 しかし、この事件は日本にも波紋を及ぼし、蘭学者の渡辺崋山や高野長英らをはじめとする運動によって、幕府政策への批判が高まり、5年後にこの法令は撤廃となる。音吉らは本当に時期が悪かったといえよう。 いずれにしても故郷を目前にして上陸を拒まれた彼らは、断腸の思いでマカオに引き返す。祖国の人から砲撃されたことによる悲しみ、無念さは、言い尽くせないものであっただろう。音吉はじめとするモリソン号の漂流民は、この事件から帰国を断念し、異郷の地でそれぞれが自分の生活を切り開かねばならなかった。音吉は20歳前後の青年になっていた。 |
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イギリス商社に勤務、日本の漂流民を助ける モリソン号事件の後、音吉はイギリスの商船や軍艦に乗り込んで、船員として働いた。その後1843年に上海に行き、ここに住む最初の日本人となる。イギリスの商社「デント商会」に勤めて貿易業に従事し、その頃からジョン・M・オトソン(音さんから転じたもの)を名乗るようになる。 一方、働きながら音吉は、自分と同じ境遇にある日本の漂流民を援助する活動をはじめる。実はこの江戸時代、船の漂流は稀有な事件ではなく、意外に頻繁に起きている。なぜなら幕府が鎖国を守るため、遠洋に耐えられない船作りを強いていたからだ。したがって悪天候により難破した船は大半が覆没し、はたまた漂流して命からがら外国に漂着しても、日本に帰ることができる人は少ない。 そんな艱難辛苦の漂流民を、音吉らは協力して、マカオや上海で生活の面倒を見、できる限りのことをして、帰国船の手はずをつけた。帰国を叶えた漂流民らの多くが、音吉らに世話になったことを語っている。 また音吉は、アメリカ艦隊に乗せられていた日本の漂流民の保護をめぐって、あのペリーと論戦し、アメリカ側の幾多の脅しにも動じず、無事助け出したというエピソードもある。彼の力量は英語力も含め、相当なものであったことが分かる。 |
通訳として日本へ来航、日英条約に尽力 1843〜1861年まで音吉は上海に住んでいた。この間、イギリスは日本との通商の機会を伺って、何度か渡航を試みる。その時に通訳官として選ばれたのが、イギリスの商社で働いていた音吉である。 まず最初の渡航は1849年、イギリス軍艦マリナー号で浦賀に行く。音吉にとって日本はモリソン号以来であり、その時の辛い経験からか、自分を中国人通訳の「林阿多(リンアトゥ)」と名乗る。日本側にとっては、日本語巧みな中国人として音吉が印象的だったようで、冒頭の肖像画も描かれている。 次の渡航は1854年、イギリスのスターリング艦隊に随行し長崎に行く。この時は「日英和親条約」という日英間で最初の条約を締結するにいたる。音吉も通訳官として大きく貢献した。今回は日本人として偽りなく、生い立ちや現在にいたる経緯を語った音吉は、武士や役人にもひれ伏すことなく堂々としていたという。彼の名は長崎中に知れ渡り、当時長崎で学んでいた多くの知識人も音吉の様子に注目している。
また、この時、音吉は日本側から帰国を勧められるが、時すでに遅く、上海で結婚し家族をもっていたため、その申し出を断ったという。音吉は30代の半ばであった。 |
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家族と共に、妻の故郷シンガポールへ 音吉の家族については諸説あるが、最初の結婚は1845年頃と思われる。イギリス女性と結婚し、娘エミリー・ルイーザ・オトソンが生まれるが、間もなく妻も娘も亡くなってしまう。 4歳だった娘は、シンガポールで埋葬され、その墓碑と思われるものが、今もフォートカニング・パークに残されている。この頃からすでに音吉はシンガポールに行き来しており、彼は商人としても成功を収め、なかなかの資産家であったようだ。 その後、マレー人と白人の混血の女性と再婚し、3人の子供をもうける。夫婦仲は円満だったらしく、いつも行動を共にしていたとのこと。1862年には、「太平天国の乱」の影響を逃れるように上海を離れ、晩年の永住地として、家族と共に妻の故郷、シンガポールに移る。この時、シンガポールに初めて住む日本人となった。 |
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フォートカニング・パークにある、 音吉の娘の墓碑 ⇒音吉の娘、エミリー・ルイーザ・オトソンの墓碑(享年4歳9カ月)。先妻との娘であり、シンガポールで亡くなったとされる。フォートカーニング・パークの壁面に、ギュツラフ夫人の墓碑と隣り合わせに、現在もはめ込まれている。 |
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●文久二年正月十九日、陽暦二月十七日 「旅館にて日本の漂流人音吉なるものに遇えり。音吉は尾州蔦(知多)郡小野村の舟子にして、天保三年同舟十七人と漂流して、北亜米利加の西岸カリホルニーに着し、其後英に行き、英国の戸籍に属して上海に住し、新嘉坡の土人を娶り三子を生めり。近頃病に罹りて、摂生の為十日前本港に来り、偶ま日本使節の来るを聞き来訪せり。(略)」 |
音吉と諭吉の出会い。シンガポールでの暮らし 1862年2月、音吉がシンガポールに来て間もなく、偶然にも日本から幕府の遣欧使節団がシンガポールに寄港する。音吉はその噂を聞いて一行を訪ね、自分が経験してきたイギリスや中国などの情勢について、詳しく話し伝えたという。使節団には通訳として、若き日の福沢諭吉がおり、音吉の話は彼の「西航記」の中にも詳細に記述されている。諭吉は音吉のことを、 「様々な仕事を経験して海外での見聞を広め、語学に通じ、シンガポールに落ち着いた時には、すでに一廉の国際人になっていた」と評している。シンガポールで音吉に会ったのは諭吉だけではない。使節団を追って来た森山英之助(多吉郎)らは、音吉の案内であちこち見学し、音吉の家にも立ち寄り、その豊かな暮らしぶりに驚き、「家は二階建てで七、八間あり、庭は広く花木を植え、召使いもいた。内の器物は整っており、馬車も所持している」と書き残している。ちなみに森山英之助は、幕末の天才的な通訳者で、ペリー来航の際は通訳として流暢な英語で説得し、ペリーを驚かせたという人物である。 シンガポールでの音吉は、貨物の口入(貿易商と思われる)などを営んでいた。オーチャード・ロード(現在のイスタナ・パーク西端あたり)に住み、他にも家があったとされる。 その後、1864年にはシンガポール市民権も取得し、この地で5年過ごした1867年、音吉は病気で亡くなった。享年50歳(墓地埋葬記録による)。日本ではこの翌年が、明治維新であった。
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音吉の遺志を受け継いで、息子が日本へ 音吉の帰郷はついに叶えられなかったが、「いつか故郷へ」という思いは生涯消えることはなかったであろう。その父の思いを叶えるべく、音吉の息子ジョン・ウィリアム・オトソンは、音吉の死後10余年たった1879年(明治12年)、日本へ行き、横浜で入籍許可を得た。そして父の名であった「山本乙吉」に改名した。その後、神戸で働き、日本人女性と結婚し、家族と共に台湾に移住したとのことである。 奇跡的に見つかった、音吉の遺骨 音吉は病死後、ブキティマ・ロード沿いのキリスト教墓地に葬られた。しかし同墓地は都市計画で取り壊されており、音吉の遺骨は長らく行方不明となっていた。しかし2004年、その遺骨が奇跡的に見つかったのである。 遺骨の捜索から発掘に至るまでの経緯は、たくさんの人の思いが込められた、まさに音吉をめぐるもうひとつのドラマである。ついては次号にて詳しくご紹介したい。 |
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