December 2011
3校合わせて1700人程が通う、シンガポール日本人学校。その歴史は、民家を改装した小さな校舎で、わずか27人の児童が学んだところから始まりました。今では毎年、9月3日の開校記念日に合わせて記念行事が行われます。また、小学4年生が社会で、日本人学校の歴史について学びます。今回は、学習を終えた5人が子ども記者になり、開校時の児童の一人だった井上敏さんに、当時の学校の様子などを聞きました。
| 子ども記者: | 滝沢香林さん、竹中彩乃さん、 増井翔一郎さん、小川音乃さん、辻村優希さん |
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井上 敏(いのうえ さとし)さん 1965年に初来星。当地の小学校に入学した後、66年9月の日本人学校開校時に小学4年に編入学し、6年生をスイスコテージ校で過ごす。69年3月に卒業後、帰国。92年に再び来星。以来シンガポールに在住。 |
私は1965年にシンガポールに来ました。日本人学校ができたのは66年9月です。だから、私が来た時にはまだ日本人学校はありませんでした。
できた時には児童が27人という、とても小さな小学校でした。場所はダルベイエステートというところです。そこで最初の日本人学校が始まりました。
普通の家を小学校として使っていましたから、普通の部屋が5つくらいあって、3つの大きい部屋を教室に使っていました。なぜ3つかというと、1年生と2年生で一部屋、3年生と4年生で一部屋、5年生と6年生で一部屋というような使い方をしていたのです。

子ども記者と井上さん
そうです。一部屋に黒板が2つあって、そこで1人の先生が同時に2つの学年を教えるという、とてもスーパーマンみたいな先生たちでした。私たちは、違う学年の授業を隣で聞いているという、今ではちょっと信じられないような感じですね。
私の学年は5人くらいでした。その後増えていくのですが、多くて15~16人というところだったのではないかと思います。最初は全校で27人でしたが、それからすぐ50~60人になってきたと思います。
それまでは、みんなばらばらにローカルの学校に通っていました。本当にできるということがわかって、みんながいっしょの学校に行ける、本当に行けるというだけでうれしかったですね。
こうやってみんなで集まって、日本語で勉強ができるということで、わくわくしていた記憶があります。また、日本人社会全体にとって待望の学校開校でした。そして、これが今のシンガポール日本人学校の始まりです。

1つの教室で2つの学年が同時に学習していた
毎年やるようなイベントはまだなくて、運動会は日本人会が主催したものが毎年ありました。それが、一つのみんなが集まる場でした。
もう一つは、2代目の校長先生の時に、花笠音頭をみんなで練習して、当時は星日文化祭というのがあって、そこでみんなで踊りました。それからしばらくは花笠音頭をやるようになりました。法被(はっぴ)まで作って。これはお母さんたちの手縫いなんです。それっぽいものを探してきて、人数分縫ったんです。日本の百貨店もないような時だったので、両親などはたいへん苦労したと思いますね。
内容はだいたい今と変わりません。かけっことか、玉入れとか、騎馬戦とか。ただ、人数が少ないので学年対抗ではなく、1年生も2年生も混ざってやっていました。

手縫いの法被を着て花笠音頭を踊った
遠足は、見本市船「さくら丸」がシンガポールに寄港した際に、船内を見学させてもらいました。また、当時あったBBCの放送局を見学に行きました。修学旅行はありませんでした。
当時の日本と同じカリキュラムだったと思います。6時間目までありました。弁当を持っていき、午後も授業がありました。クラブ活動はありませんでした。
教科書は日本から持ってきてもらいました。ただ、参考書や資料は手に入りませんでした。こちらに日本の本屋さんもありませんから、何もない状態で、先生がいろいろなところから資料を集めてきてくれては、手作りの参考書のようなものを作ってくれていましたね。
基本的に、親が車で送り迎えをしてくれていました。
短い休み時間だったのですが、ドッジボールをすることもあったし、とにかく遊び回っていました。当時は庭といっても普通のところですから、整備されていないんですね。結構蚊がいて、校庭の隅々に蚊取り線香が置いてありました。
お弁当でした。今のようなスーパーもなく、日本の食材が少ない時代でしたから、親は食材集めに苦労したと思います。たまに船便で入ってくる日本からのお米はとても貴重でした。水道水は飲めなくて、煮沸していました。
行ってみて、こんなに大きいのかと思いました。教室一つをとっても、全然違いました。大きさが一番うれしかったです。でも、ここも周りが住宅街なんです。確かに広いのですが、周りの家に人が住んでいらっしゃるので、我々が騒ぐと学校に苦情が来る。そのような場合には、先生は謝りに行っていたのではないかと思います。
当時は小さな学校でしたが、少ない分まとまっていたので、今でも連絡を取り合っています。少年時代にシンガポールでいっしょに過ごしたという絆で結ばれていることを感じます。

(構成:湯山 修一)