<August 2011 掲載>

おなじみのロコモーションの音楽に乗せ、SMAPの5人が携帯片手に空飛ぶ船を闊歩する…
「SMAP→SINGAPORE」…この初夏、そんなCMが日本で話題になりました。ひと昔前の未来都市を描いたような画像に「CGに違いない」と思った日本人も多いそうです。けれども、これはまさに現実のシンガポール。この地に住む私たちにとっては、既に馴染みのある現在のマリーナ・ベイの光景です。今回は、かつて賑わっていた埠頭(ピア)に焦点をあてながら、マリーナ・ベイの今昔を紐解いてみましょう。

シンガポールの近代化は、1819年に港が開かれたことによって始まったと言われています。その港で働くために世界中からあらゆる職業、階層の人々が集まり、東南アジアの中継貿易地として確たる地位を築いていきました。その玄関口のひとつが現在のマリーナ・ベイです。

◆ マリーナ・ベイの埠頭~ジョンストン・ピア

19世紀半ばになると、シンガポールの人口は5万人を超え、貿易額も1820年の10倍以上になります。港には船があふれ、船荷や乗降客も増える一方。それに応えて建設されたジョンストン・ピアは、当時のフラトン・スクエアの海側、現在のワン・フラトン南端に1856年3月に完成しました。この位置は、倉庫の建ち並ぶシンガポール・リバーの河口からも商業区域(現在のラッフルズ・プレイス)からも近く、当地の海運にとって理想的な場所でした。
埠頭の名前は、シンガポールの貿易業のパイオニアであるアレキサンダー・ローリー・ジョンストン(写真①)から名づけられました。彼は、シンガポール商工会議所の初代会頭を務め、当地の貿易業を牽引し、人望にも篤かったといわれています。この埠頭の海側には、沖合の船に埠頭の位置を知らせ、行き交う船の安全を促すために赤いランプがつけられました。この埠頭が、中国語(福建語)で「Ang Teng」、マレー語で「Lampu Merah」と呼ばれるのは、ともに、この赤いランプに由来するものです。

◆ ジョンストン・ピアに降り立った人々

80年近く第一線で活躍したこの埠頭には、中国やインドからやってくる苦力(クーリー/単純肉体労働者)も、一攫千金を狙うアラブ商人も、ローヤル・ファミリーも降り立ちました。
 今年のアカデミー賞受賞で話題になった映画「英国王のスピーチ」の主人公、ジョージ6世(在位1936‐1952年)の両親や兄もそんな人々です。父王ジョージ5世(在位1917‐36年)は、皇太子時代の1901年に、妻と共にこの埠頭に降り立ちました。植民地時代で最も華やかだった頃を象徴するかのように、そこここにユニオン・ジャックがはためき、シンガポール全土をあげて歓待する様子が写真に残されています。ジョージ6世の兄のエドワード8世(在位1936年)は皇太子時代の1922年に、プリンス・オブ・ウェールズ(写真②)の名でこの地を訪れています。マラヤ・ボルネオ博覧会の開会を宣言するために寄航したもので、この半月後には日本を訪れています。彼はその後、王家にとっては許されない恋に落ちてしまったため、王位こそ1年足らずで弟に譲ることになりますが、この長いアジア・パシフィック外遊では、並々ならぬ外交の才を発揮しています。また、この外遊に同行したルイス・マウントバッテン卿は、1945年9月5日、シンガポールのシティ・ホールで日本陸軍大将、板垣征四郎と降伏調印を交わすため、この地に再びやってくることになります。


◆ ジョンストン・ピアからクリフォード・ピアへ

1930年代に入ると、海岸沿いの街並みが美しく整う中、すっかりみすぼらしくなったジョンストン・ピアは、その役割を南隣に完成したクリフォード・ピアに譲ることになります。当時の公共事業局主任、フランク・ドリントン・ワードが新しい埠頭の設計を任されました。彼の設計した建物は、旧最高裁判所、旧カラン・エアポートのターミナルビルなど、今もいくつかシンガポールに残っていますが、当時のヨーロッパで流行していたアールデコ様式や初期モダニズム様式にも影響を受けています。このピアも大ホールのシンプルでリズミカルなコンクリートのトラス(屋根を支える架構)や、外壁に沿ったアーチ型列柱が、軽快な姿を演出しています。
クリフォード・ピアの名前は、海峡植民地総督、ヒュー・クリフォード(在位1927-30年)に因んでいますが、愛着のあったジョンストンの名の継続が望まれ、1933年6月3日の開所式を多くの商人がボイコットするという事態にまで発展しました。結局、クリフォード・ピアの名前に落ち着いたものの、この埠頭にも引き続き赤いランプが掛けられたため、「赤いランプ」(写真③)の愛称は引き継がれました。

 

① カベナ・ブリッジのたもとにある‘The River Merchants’。 縁石に腰を下ろし、中国人やアラブ人と商談をする西洋人は、ジョンストンがモデルだと言われている。

② エスプラネード・パークにある慰霊塔‘The Cenotaph’(ナショナル・モニュメント)。1922年に当地を訪れたプリンス・オブ・ウェールズとマウントバッテン卿の一行は、この除幕式にも参加した。

③ フラトン・ベイ・ホテル からマリーナ・ベイを望む。埠頭だった名残りの赤いランプが見える。

 

 

 

 

 

◆ 閉じられたマリーナ・ベイ~そこに未来がある

クリフォード・ピアはその後、シンガポールの重要な埠頭として活躍し、近年は南の島々への定期便発着場所となっていました。例えばクス島に向かう時、鄭和観光船に乗る時などに利用した人もいらっしゃるかもしれません。けれども2006年4月、マリーナ・ベイ淡水化計画の一翼を担うために、埠頭の歴史に幕を下ろしました。
長い間、シンガポールは水資源を隣国マレーシアからの輸入に頼ってきました。水資源を自国で賄う一環として考えられたマリーナ・ベイ淡水化計画は、20年以上前からの懸案でしたが、2005年、ついに実現に向け動き出しました。そして、2008年にマリーナ・バラージ(ダム)が完成。マリーナ・ベイはシンガポールで15番目の貯水池になりました。昨年シンガポール政府は、今後の水需要に対応するため、2060年までに水の供給の5割を下水再生水「NEWater」、3割を海水淡水化にすることを発表しましたが、マリーナ・ベイは海水淡水化の約三分の一を担います。
淡水化計画とともに進められてきたのが、マリーナ・ベイ一帯の再開発です。カジノやミュージアムを併設するホテル、最新機能を備えた高層オフィスビル、ダムと一体になった水のテーマパーク「マリーナ・バラージ・パーク」、さらに来年初めには熱帯植物園「ガーデン・バイ・ザ・ベイ」もオープンします。これらは、マリーナ・ベイという大きな器の縁取りを彩るかのように華麗なスカイラインを作り出し、360度の大パノラマのウォーター・フロントを展開しています。
2010年7月、クリフォード・ピアがホテルのエントランス、およびレストランとして生まれ変わり、私たちの前に再び姿を現した時、このホテルから望むマリーナ・ベイの風景も一変していました。そこは、かつて多くの大型船が停泊した延々と続く大海原ではありません。冒頭の空飛ぶ船の空中庭園が誇らしげです。閉じられたマリーナ・ベイの風景を楽しみながら、しばしシンガポールの過去と未来に思いを馳せてみては、いかがでしょうか?

 


(文・写真 井上 千晶)

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