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July 2006
SICC ブキットコースは芋畑
杉野 一夫

 女優の木村佳乃さんのお父さんが支店長として1990年代シンガポールに駐在されていました。ある日、日本人会事務局を訪ねてこられました。 木村支店長の父親(即ち佳乃さんのお祖父さん)が他界され、頂戴したお香典を日本人墓地の管理維持に役立てて欲しいと多額の寄付をご持参に なられました。

 木村支店長のお父さんはシンガポール占領中、旧日本軍の野戦重砲中尉として当地に着任、ジョホール水道の警備を担当していました。お父さんは 息子さんのシンガポール駐在を機会と捉え、当地を訪問され、縁の場所を訪ね歩きました。日本人墓地も参拝され、お父さんがシンガポール駐在の息子に 墓地内の説明をされたようです。

 旧日本軍はマックリチ貯水池の湖畔に神社を建設しました。伊勢神宮の入り江に似ている場所を選んで橋を渡し、向こう岸に大きな神社を作りました。 正確にはSICCブキットコース3番ホールの対岸になります。これが昭南神社です。神社は敗戦が決する直前、旧日本軍の手によって爆破されましたが、 今でも神社の跡が残っています。

 占領時代、ゴルフ場の中は英国連合軍の捕虜によって神社に向かって道路が造られ、ブキットコースは芋畑に開墾されました。当時のことを知る キャディーによると、16番ホールのフェアーウェイはすべて掘り起こされて、タピオカやサトイモが植えられました。他のフェアーウェイは荒廃しました。

 日本が敗戦すると、今度は捕虜となった旧日本軍兵士がタピオカ畑を元のゴルフコースに回復しました。木村支店長のお父さんはゴルフ場回復工事に 携わりました。

 シンガポール陥落は旧日本軍のマックリチ貯水池制圧によって決しました。今は穏やかなこの湖はかつてはシンガポール侵攻の際の最後の激戦地でした。 緑陰の広がるこの一帯には忘れてはならない歴史が眠っています。

 下記は木村支店長に頂いた書状です。

 「父重雄は、昭和19年、戦況既に著しく敗戦の色濃い海上ルートで米潜水艦にも遭遇せず、第十八師団野戦重砲中尉として当時昭南島と呼ばれていた シンガポールに着任。師団本体は有名な、牟田口中将指揮のもとでインパール作戦に参戦中。その留守を預かる補充将校(むろん重砲も作戦に参戦)として、 主にジョホール水道の警備を担当、終戦を迎える。敗戦後の捕虜時代には、戦前の米国勤務の経験をかわれて連合軍との通訳として復員まで、当地にて 戦後残務処理にあたる。その作業のひとつが、SICC(BUKIT, SIME COURSE)を日本軍は占領直後より、自給自足の為イモ畑として開墾していたが、 これを元のゴルフコースに戻すことであった。当時の日本人はゴルフに対する知識は非常に低く、現在では、誰でも知っているBUNKERも としか訳すことが できなかった時代に、数百人の兵士を指揮してジュロンの収容所から朝まだ暗いうちに、隊列を組み軍歌を歌いながら、毎日作業に通った。昨年 (平成6年7月)当地を訪問したおりに、BUKIT COURSEの一番ティーに立って暫く瞑想に耽っていたが、軍歌が聞こえてくると言ってマックリチ貯水池に 向い一礼したのが印象的であった。又、終戦直前ゲリラの狙撃に合い、若い部下を無くした場所(ジョホールのGENERAL HOSPITAL付近)を訪問、献花をして 「やっと肩の荷が下りた」と言っていたが、これは自分の戦後の歴史に区切りをつけたものと思えてならない。昭和22年夏、横須賀に元気に復員して来た、 真っ黒に日焼けした父の顔と真っ白なシャツがまだ5歳であった私の脳裏に焼き付いています。ヨゼフ木村重雄85歳1995年8月1日復員から48年たった焼けつく ような、夏日に神に召されました」

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