西村 信泰

"快傑ハリマオ"1960年代に少年期を過ごした人は覚えている人も多いのでは。昭和35年から36年にかけてテレビ放映されたヒーロー。この"快傑ハリマオ"のモデルこそ、福岡生まれマレー育ちの日本人、谷豊。

彼はマレー北部からタイ南部を股にかけて跳梁(チョウリョウ)した盗賊団の頭目で、率いる部下は3000人とも。盗みはするが人は殺めない。盗んだ金は貧しい人に分け与える。その大胆と知略と侠気(キョウキ)からマレー人の人望を得、人々は親しみを込めて「ハリマオ=マラユ(マレーの虎)」と呼んだ。

昭和16年、第二次世界大戦開戦に先がけ、日本軍特務機関「藤原機関(F機関)」はマレー半島攻略を第一目標とし現地事情に通暁するハリマオに注目し協力を求めた。谷もこれに応え、開戦と同時に英国軍を相手に神出鬼没のゲリラ戦を展開しながら、一路シンガポールを目指したが、行軍中に罹(カカ)ったマラリアが悪化し、昭和17年3月、シンガポール陸軍兵站病院(現タントクセン病院)で生を終えた。享年30歳であった。

ハリマオ谷豊とは一体どんな人物であったのだろうか。なにが彼をハリマオへと走らせたのか。ハリマオ谷豊は何を残したのか。

左写真「ハリマオ=マラユ」こと 谷 豊

←←←

ヒーロー"ハリマオ"とは

♪真紅な太陽 燃えている 果てなき南の大空に♪

これは三橋美智也が歌う"快傑ハリマオ"テレビ主題歌の冒頭部分。この唄に合わせ、ターバンとサングラスに2丁拳銃といったいでたちでさっそうと現れ悪漢を懲らしめる。TVの普及とともに浸透していった高度成長期のヒーローだ。

実はハリマオは戦前、戦後の2度にわたりヒーローになっている。最初は日本軍により劇的な死を遂げた日本人諜報員谷豊を戦意高揚のシンボルとして公表、新聞に映画に取り上げられ、英雄"ハリマオ"生させた。

戦後は冒頭のテレビ番組をはじめ映画、ドラマや漫画として紹介された。その多くは戦前からの英雄"ハリマオ"のイメージを踏襲したものであったが、一人の人間谷豊としての葛藤を描いた作品も見られるようになった。

ハリマオを扱った作品

映画

・マライの虎 1943年6月24日

(大映、監督:古賀聖人、主演:中田弘二)

・ハリマオ 1989年6月3日

(松竹、監督:和田勉、主演:陣内孝則)

・ルパン三世 ハリマオの財宝を追え!
1995年8月4日(日本テレビ)

・岸和田少年愚連隊カオルちゃん最強伝説
マレーの虎
(松竹、主演:竹内力)

漫画

・快傑ハリマオ

(原作:山田克郎、作画:石ノ森章太郎)

 

ドラマ

・快傑ハリマオ 1960年
(日本テレビ、宣弘社制作)

 

谷 豊の生い立ち

1.豊1歳、家族とともに
     クアラ=トレンガヌへ移住

谷豊は1911年(明治44年)11月6日、福岡県筑紫郡日佐村五十川(現福岡市南区)に父浦吉、母トミの長男として誕生した。父浦吉は、まだ海外渡航が難しかった時代に、若くして単身米国に渡り理髪の技術を習得して帰国するなど、進取の気性に富んだ人物であった。また、生来血の気が多く、郷土愛が強かったそうだ。
豊1歳の年、父浦吉はマレー帰りの同郷人の話に心動かされ、海外生活を志し、家族を伴いシンガポール経由にてマレー半島東海岸のクアラ=トレンガヌへ移り住む。翌年、理髪店を開業。当時トレンガヌには30人ほどの日本人が住んでいたが、豊の遊び相手はもっぱらマレー人や中国人であった。

2.豊7歳、小学校入学
      (帰国子女)のため日本へ

豊は現地の小学校に入学するが、英国植民地であったマレーでは英語とマレー語による教育だったせいか、1918年(大正7年)父の意志により日本の学校で勉強を受けるべく妹ともども福岡に帰される。妹ミチエによると、親許を離れた寂しさと言葉が分からないもどかしさ。また、それからくる唐「じめ狽ノ会いトレンガヌへの想いが大だったと話している。
豊について当時の同級生や親戚は「気性の激しい男で、よくけんかをしたが翌日にはサバッと仲良しになった」「腕白で負けず嫌い、弱いものいじめは絶対許さなかった」と話している。親譲りの血の気が多く、負けん気が強かったようだ。当時から腕白で喧嘩もするが、理不尽な乱暴はせず、陽性で他人への心配りもある親分肌の姿は、後年のハリマオを彷彿とさせる。

3.豊16歳、再びマレーへ戻り
             家業を手伝う

豊は高等小学校1年終了時1927年(昭和2年)、母トミの迎えで再びトレンガヌへ戻る。実家の理髪店を手伝いながら当地で過ごす。豊はママ(マレー語で親しみと尊敬を込めた男性の呼び方)という愛称で呼ばれていた。この頃の豊かは、喧嘩もよくしたが頼りがいのある兄貴分となっていたようである。
もともと色白で美少年の豊は女性にもよくもてていた。最初の結婚相手はチェソム。イスラム教徒との結婚は本人もイスラム教徒でなければならず、この頃にイスラム教に改宗したと考えられる。この結婚は父浦吉の激怒を買い、連れ戻される結果となった。が、豊はこの頃には、すでにマレー社会にしっかり根付いていた。

4.豊20歳、徴兵検査「丙種合格」

1931年(昭和6年)豊は父の命を受け、日本人として徴兵検査を受けるため再び日本の地を踏んだ。結果は「丙種合格」、不合格である。豊の身長は153〜154cm、合格規準は155cm。規準より僅かに足りなかった。「丙種」は当時の日本人にとっては恥とされたが、豊は少しも気にしていなかったらしい。
その後、近くのアサヒ足袋(日本ゴム)に働くが、まもなくやめ、市内の鉄工所に就職する。この時代も、けんかと遊びは絶えなかったようだ。給与を貰うとばら撒いて仲間を連れて博多に飲みに行っていたらしい。当時の豊の親分肌を物語るエピソードがある。自分名義の田地六畝をいつの間にか売り払い、貧しい友人に恵んでいたという。ここでも、面倒見と気前のよさは父親譲りであった。

5.妹静子の虐殺、再びマレーの地へ

豊が日本に帰国していた間に、谷家に悲劇が続いて起こった。父浦吉の逝去。妹静子の虐殺事件だ。1933年(昭和八年)、時の満州事変の勃発に怒った中国人暴徒がトレンガヌの日本人街を襲撃、谷一家は隣家に逃れたが、風邪で2階に寝ていた静子は暴徒により殺害され首を切除された。

犯人は逮捕されたが、刑執行は不明であるとともに英国官憲の対応が手緩かったため日本人の不信感が募った。後に豊が英国人、中国人をターゲットにした盗賊に変貌していった要因の一つと言われている。

翌年、谷家はトレンガヌを引き払い日本に戻る。帰国後、母から妹静子の事件を聞き、激怒した豊は復仇を誓う。以前よりマレーへの思い強く密航を企てていた豊だが、今回は家族を説き伏せ、1934年(昭和9年)、再び、単身マレーに旅立つ。家族とはこれが永久の別れとなる。

ハリマオ谷豊の誕生

1.トレンガヌに戻り、盗賊へ変身

トレンガヌに戻った豊は二度目の結婚をし、理髪店を営んだ。表向きは理髪業だが、実態はマレー人を手下に使い「盗賊家業」をやっていたようだ。いつ頃から始めたかは不明だが、トレンガヌに戻って、そう遠くない時期からだったようだ。豊の周囲には無頼の若者達が集まった。相も変らぬ親分肌、持ち物全てを与えて惜しまぬ持ち前の気前の良さがなせる業であろうが。彼らがどれほど豊に忠誠を誓い、どれほどの帰属意識で結ばれていたかは知る由もないが、窃盗団の母体になっていったことは確かである。

豊は英国人の屋敷に泥棒に入り、捕まってクアラルンプールに護送されたことがある。英官憲は彼のことを既に詳しく調べ上げていたが(静子事件など)、人を殺めたりしないのですぐに釈放したようだ。最初は妹静子事件に対する英官憲対応への憤りからのものが、仕舞にはマレー人社会を牛耳る支配層、特に英国人・富裕華僑に向けられエスカレートしていったと云われている。

2.義賊ハリマオ神話の誕生

盗賊団の首領としての豊の行動半径が、いつごろから広がっていったのか定かではないが、主として北部マレー側コタバルと南部タイ側ナラティワとの二つの都市を軸にしていたようである。その活動実態は明らかではないが、今もこの地域の庶民層に伝説的英雄として語り継がれており、盗んだものを惜しげもなく配っていたことからか、貧者や弱者に味方する義賊として評判を勝ち得ていたことは確かである。

3.タイ南部での束の間の休息

1939年(昭和14年)、マレー官憲が豊に莫大な懸賞金を懸け逮捕に躍起になった結果、豊はタイ領内のバンブーに逃避して生活を送ることになる。後に日本軍がマレー作戦時の上陸地点となったパタニのすぐ傍である。豊はパスポート不携帯でタイ警察に捕まるが、チェ・ミノという年上でお金持ち女性により保釈金を積まれ釈放され、この地で日英開戦までの約一年、チェ・ミノと束の間の家庭生活を送ることになる。豊にとってこれまでにない平和な日々であったようだ。戦争がなければ、このままこの村で暮らしていたのかもしれない。

4.日本軍特務機関への協力

1941年(昭和16年)、このころ豊は罪科不明ながらパタニの牢獄に収監されていた。そこから出したのが日本軍特務機関「藤原機関(通称F機関)」の神本利夫だった。F機関はマレー半島攻略にあたって現地事情に通暁するハリマオに注目し協力を求めた。最初は反目していた豊も最後は自ら協力することとなった。

F機関の任務

1.インド工作:

マレー内90万人インド人の協力獲得(英軍内インド人将兵の背反投降と対インド独立基盤樹立)

2.マレー人工作:

マレー人の反英協力の獲得、各州サルタンの庇護

3.ハリマオ工作:

ハリマオ谷豊を頭目とするマレー人匪徒の対英闘争操縦

4.華僑工作:

シンガポール華僑の反英サボタージュの指導

5.スマトラ工作:

スマトラ、特にアチェ民族運動との協力指導

豊は開戦前は英国人経営の鉱山に入り込み情報収集や兵站としての食糧確保といった所謂スパイ活動を行った。12月8日の開戦後は、マレー・タイ人数名を引き連れ、辿った足取りは定かではないが雨季のジャングルに分け入り、先遣隊として、時には英軍背後に潜入し撹乱工作に従事した。橋梁や通信網の切断と確保、避難マレー人への宣撫、マレー義勇軍の開放、敵情報告といった対英軍の破壊防止と保守工作、対マレー人の宣撫工作など諸々のゲリラ戦を展開しシンガポールを目指した。が、このとき既にマラリヤに罹っていた。

5.ハリマオ谷豊の最後

豊はマラリアに冒され40度近い高熱を押し憔悴しきったなかでも活動を継続した。イポーにおけるマレー義勇軍開放に当たっては約1800名のマレー人青年に以下のことを熱弁した。

「俺はハリマオだ。日本軍は、英軍は敵とするがマレー人やインド人は敵としない。銃を捨てて家へ帰れ」「俺はハリマオだ。諸君は一体誰のために戦っている。英軍はわれわれマレー人の独立の敵、日本軍はマレー人の味方として英軍と戦って勝利の進軍を続けている。銃を捨てて故郷に帰れ」。この言葉を聞き、全員が歓声とともに銃を捨てたという。

イポーからジョホールバルまでの数百キロは歩くこともままならず担架に担がれての行軍だった。1月31日、日本軍ジョホールバルへ進軍。豊は既に危険な状態にあり、直後にジョホールバル陸軍病院に運び込まれた。2月15日、シンガポール陥落。豊かは陥落からあまり遠くない日に、さらにシンガポール陸軍兵站病院(現タントクセン病院)に移された。直後、日本軍は豊に官吏登用を伝え、豊も素直に喜んだそうだ。

病状回復せず、3月17日夕刻、豊かは30年の生を終えた。死の間際、豊はイスラム教徒として埋葬されることを望んだ。

彼の言葉どおり遺体は数名の仲間に担がれ病院を後にした。病院のあるノべナ近くのパラジン・モスクで葬儀が行われ、その近辺にあったイスラム墓地に埋葬されたといわれているが、墓地は現存せず、正確な墓の位置も分かっていない。現在、シンガポール日本人墓地に「マレーのハリマオ谷豊」の顕彰碑のみ残されている。

右写真(タントクセン病院病棟
(1995年1月撮影。山本節提供)
→→→

ハリマオ谷豊が残したもの

彼の人生を顧みると複数の顔が浮かんでくる。言うまでもなく、一つはハリマオであり、もう一つは人間谷豊だ。ハリマオは変装の名人であったと語られているが、豊自身も日本人としての顔と、マレー人としての顔とを使い分けていたのかもしれない。

帰国子女時のことばの壁や徴兵検査不合格といった劣等感を持ちながらも、日本人・九州人としての気質を有した日本人谷豊。彼はF機関への協力を約束したときに一つだけ願い事をしている。写真撮影だ。「私も命を賭けるのだから写真を撮って家族に送ってほしい」。この時、既に戦争への従軍、戦死を覚悟していたようだ。が、同時に日本人として、また母への決別の形見として撮影したのではなかったのか。ポートレートの憂いは、そんなことを想像させて止まない。

豊にとってはマレーそのものが故郷だった。もの心がつく前よりマレーに育ち、マレーの地に、人に、親しんできた。イスラム教に入信し、割礼まで受けている。仲間入りの証である。

妹静子の悲惨な事件が契機となりマレーに戻り、彼をハリマオへと走らせたが、その実は復仇よりマレーに対する慈愛だったのではなかろうか。勿論、困った人を見ると放っておけない親譲りの性格がそうさせたのであろう。

豊が、日本軍をしてマレーを解放しようと思ったかは定かではない。しかし、彼が多くのマレー人青年を無益な争いから救ったことは事実である。そして、もう一つ確かなことは、人生の最後にマレー人としての顔を選んだことだ。

没後半世紀が経った1996年にマレーシアのテレビ局が彼をテーマにした番組を制作した。その最後は以下の言葉で締めくくられた。

「英国軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、マレーを愛した一人の日本人だった」。

戦争の時代に翻弄されながらも、二つの異なる文化・社会なかでこころのコミュニケーションができる真の国際人だったのでないだろうか。ハリマオ=谷豊は、現在も多くの地域で生じている民族や宗教の軋轢に対して、国際社会の相互理解と恒久的平和、慈愛の精神と行動の大切さを語りかけているのかもしれない。


参考文献

・中野不二男『マレーの虎 ハリマオ伝説』 

新潮社、1988年/文春文庫1994年

・山本節『ハリマオ - マレーの虎、六十年後の真実』 

大修館書店、2002年。