199310月、愛知県美浜町の斉藤宏一町長から筆字で書かれた書簡が届きました。音吉の情報収集のためHeritage Boardを訪問したい、ついては面会の約束を取り付けて欲しいと依頼がしたためられていました。斉藤町長はその年の11月中旬、中部空港建設のためのチャンギ空港調査団の一員としてシンガポールを訪問されました。町長に同行しHeritage Boardに出向き、私は学芸員のDavid Chng氏と町長との間の通訳を務めました。その時初めて音吉の数奇な人生に触れ、大きな感動と興味を覚えました。斉藤町長から入手した音吉の情報を日本人会史跡史料部内の歴史友の会メンバーに興奮の面持ちで報告したのを覚えています。その後たくさんの資料、情報を斉藤町長から頂きました。音吉の資料、情報を読み進めるうち、歴史友の会メンバーの関心は音吉のお墓の行方に進んでいきました。

 音吉の遺骨の埋葬場所を探し出すに当たって、最大の幸運はLeong Foke Meng氏(Singapore Land Authority)と知己を得たことでした。同氏には日本人学校小学部チャンギ校の土地の確保、クレメンティ校の租借延長に甚大なご理解とご支援を頂いていました。私が音吉の墓の所在について相談したことがLeong氏の関心を引き、同氏の熱心な調査が音吉の墓の所在の発見に繋がりました。他にもLeong氏でなければ探し出せない数多くの発見もあり、Chng氏との遭遇と合せて、幸運な巡り合わせを感じます。

 Chng氏から入手したRegister of Burials in the Singapore Christian Cemeteryによると、音吉は1867117日、亡くなり、1867119Bukit Timahのキリスト教徒墓地に埋葬されました。音吉はキリスト教徒だった為、記録では名前がJohn Matthew Ottosonとなっています。1970年にBukit Timah墓地が都市発展計画の影響で、全ての墓が掘り出され、いずれかの場所に改葬されました。しかし改葬先は杳として知れず、歴史友の会は手掛かりがないまま無為の歳月を過ごしました。音吉遺骨埋葬場所の発見までの経緯を下記の通り報告します。

<経緯>

1993年11月

斉藤町長、杉野事務局長はHeritage Boardを訪問、Chng氏(学芸員)と面会。Chng氏より音吉に関わるRegister of Burials in the Singapore Christian Cemeteryなど貴重な資料・情報の提供を受ける。

歴史友の会メンバーが中心となって音吉の遺骨埋葬場所の捜索開始。

1994年9月

音楽劇「にっぽん音吉物語」がシンガポール日本文化協会(JCS)の主催でビクトリアシアターにて公演される。

1994年9月

「にっぽん音吉漂流記」の著者、春名徹氏がシンガポール来訪、環境省墓地管理部門に出向き、音吉の墓について問い合わせを行なう。手掛かり無し。


音楽劇「にっぽん音吉物語」

2002年8月22日

槙田大使、愛知県美浜町ご一行、新潟県柏崎市ご一行をお迎えし、日本人会が推し進めた日本人墓地公園化工事落成式が挙行され、斉藤(美浜町)町長によって音吉顕彰碑の除幕が行なわれた。
(注:顕彰文は町長が作成)

歴史友の会は音吉遺骨埋葬場所の捜索活動を続けるも手掛かり無し。

Register of Burials in the Singapore Christian Cemetery

シンガポール・キリスト教墓地の埋葬記録

2004年2月5日  

 杉野事務局長が音吉の墓の行方についてLeong氏に調査を依頼。

2004年2月11日  

 Leong氏から杉野事務局長に下記の通りメールが届く。音吉の遺骨の行方判明。

 "The remains of the late Mr Otokichi were exhumed from the Bukit Timah Christian Cemetery in 1970 and reintered together with the other 19 remains in grave plot no 1 of the Choa Chu Kang Christian (Exhumed Remains Section) Cemetery.

2004年3月6日  

 Leong氏と杉野事務局長とでChoa Chu Kang キリスト教墓地(Exhumed Remains Section) に出向き、墓地の現場係官Tan Bin Hua氏と面談、Tan氏の案内で音吉遺骨の埋葬場所を確認。斉藤町長に連絡。

 2004521日の「戦前シンガポールの日本人社会(改訂版)」出版パーティ開催日に間に合うよう音吉の遺骨発見情報を急ぎ加筆。

2004年4月7日

 杉野事務局長が美浜町役場を訪問、斉藤町長に音吉の遺骨場所確認の報告をおこない、音吉の姻戚子孫である山本準治氏と音吉遺骨の取り扱いについて相談。


遺骨の場所の確認
(写真左より 
Tan Bin Hua氏、
Leong氏、斉藤町長)

2004年4月26日

 環境庁国立墓地担当官Tan Bin Hua氏の案内で斉藤町長、Leong氏、菊池茂氏(STB)、日本人史跡史料部メンバー、杉野事務局長と共にChoa Chu Kangキリスト教墓地を訪れ、遺骨の場所を確認。

2004年11月

 音吉の遺骨発掘認可取得のためLetter of Authority作成を弁護士Tan Lam Siong氏に依頼。音吉の姻戚者子孫の山本準治氏と斉藤町長の署名を得たLetter of Authorityを添付して 、同月23日付け遺骨発掘許可申請書を杉野事務局長名で国家環境庁(NEA)に提出。John M. Ottoson(音吉)遺骨発掘許可取得。

2004年11月27日

 斉藤町長、Leong氏、日本人会史跡史料部有志とでChoa Chu Kangキリスト教墓地を訪れ、音吉の遺骨を発掘、NEAの指導に基づきMandai Crematorium & Columbariumにて遺骨を火葬。3つの壷に分骨し、日本人墓地公園内の納骨堂に安置。

2005年2月18日  

 午前、日本人会会長及び関係者と、美浜町来訪者一行とで日本人墓地公園にて遺骨引渡し式を挙行。  午後、日本人会ボールルームにて著者のLeong氏をお迎えして「The Career of Otokichi」出版記念パーティを挙行。斉藤町長、木村教育長他美浜町関係者は、日本人会チーム350人に加わり、チンゲイパレードに参加、「音吉音頭」(木下道彦作曲、高橋滋子振り付け)を披露。翌日19日町長一行は、3分骨した内2つの音吉の骨壷を美浜町へ持ち帰る。


遺骨引渡し式