May 2012
何度も睡眠薬で自殺未遂をしてやって来るハルちゃんという患者さんがいました。いつもハルシオンという睡眠薬を使うので、彼女はスタッフに「ハルちゃん」と愛称で呼ばれていました。昔の睡眠薬と違って現代の睡眠薬は安全性が高く、いっぺんに100個飲んだってそう簡単には死ねません。ハルちゃんはそのことを良く知っていて、入院したい気分になるといつも睡眠薬を大量に飲んでは救急車で運ばれてきました。ハルちゃんは1~2日間ぐっすりと眠り続けた後、「先生、またよろしくね」と目を覚ますのでした。
サスペンスドラマのヒロインは睡眠薬自殺がお好みです。眠るように楽に死ねるイメージなのでしょうが、現実には難しく、何日かただ眠り続けるか、猛烈なだるさや吐き気で苦しむ羽目になるか。同じ薬物摂取なら、大酒飲みのおとうさんたちの方によっぽど死の危険があります。死ぬほど大量でなくても、ジョッキ一杯のビールでさえ1錠の睡眠薬よりも内臓には悪影響があります。ちょっとした不眠なら寝酒でも、と考える人は多いですが、寝つきは良くなっても途中で目が覚めやすく、依存性もあります。寝るためだけに飲むお酒はやめましょう。それならば睡眠薬の方がずっと良好な睡眠が得られます。
睡眠薬は世間に最も誤解され、間違った知識を持たれている薬です。確かに1970年代まで使われていたバルビツール酸系睡眠薬は、自殺手段となるくらい安全性に問題があり、耐性や依存性の問題もありました。しかし、現在主流のベンゾジアゼピン系睡眠薬にそれらの欠点はありません。なのに、前任者の黒いイメージをそのまま背負わされているかわいそうな存在であります。
誤解の被害が大きいことを日頃の診療で感じています。不眠で苦しんで病院にかかっても、「危険な薬」「一度飲んだらやめられない」「どんどん薬が増えてしまうかもしれない」「薬で頭がボケてしまう」などの間違った思い込みで睡眠薬を飲むことをためらう人が少なくありません。
また、すでに睡眠薬を飲んでいる人が、知人や家族、時に代替医療の施術者から「そんな薬はやめたほうがいい」「脳がおかしくなる」などと言われて薬をやめてしまい、ますます調子が悪くなってしまうというケースによく遭遇します。ただ機械的に薬を出す医者よりも、「薬なんかやめなさい」と親身になって心配してくれるしろうとさんの意見の方に惹かれてしまう気持ちもわからないではありません。しかし、そのような誤った知識のせいでうしろめたさを感じさせられ、睡眠薬を飲んでいることを人には話せないという人が大勢います。
不眠とその原因が改善されれば、薬を減らしたりやめたりが多くの場合で十分可能です。一方、「薬を飲んででも眠れた方がいい」と割り切って薬を利用していく考えの患者さんもたくさんいます。睡眠薬は必ずしもやめなくてはならないものでもなく、眠れなくて苦しむよりも薬を使って睡眠をとることのほうが心身の健康にはるかによいからです。まずは生活習慣を改善し、場合によっては睡眠薬を上手に利用して、とにかくぐっすり眠れるようにすることが大切です。
大人の5人に1人が「眠れない」と悩む経験を持ちます。不眠は高血圧や糖尿病、うつ病、そしてときに大きな事故・事件に結びつくことも御存じの通りです。睡眠薬は怖くはなく、眠れないことが本当はとても怖いことなのです。