Letter from Clinic (April issue) 2022
29 Mar 2022
臨床心理士・公認心理師 原田舞香
4年と少し前、私が初めてシンガポールを訪れた時のことです。チャンギ空港に降り立ち、タクシーで目的地に向かう中、Marina BayからKPE(Kallang-Paya Lebar Expressway)の長い長いトンネルを通りました。「このトンネル、随分長いな。一体いつになったら出られるのだろう?」とその時は不安を感じましたが、今はもう、このトンネルの出口がいつやって来るか知っているので、不安に感じることはありません。
一昨年に新型コロナウイルス(COVID-19)感染症の流行が始まってから、先の見通しが立たない状況が続いているため、出口の見えないトンネルを進んでいるような気持ちで過ごしておられる方もいるかと思います。コロナ禍の生活が長期的に続く中、心身の調子を崩している方もおられるかもしれませんね。
そこで今回は、このような先の見通しが立たない時代を生き抜いて行くために必要な新しい概念として、「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力もしくは陰性能力)」をご紹介します。これは、「どうにも答えのでない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力」、あるいは「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐柔の中にいることができる能力」1)を意味するとされています。そして「この能力は─あるいはこの能力について知識を得ることは─新型コロナウイルスの感染拡大という危機の性格を理解し、またこの状況を乗り越えていくためにも有用である」2)と考えられています。
私たちはこれまで、仕事や人生を送る上で、先の見通しを立て、計画すること、計画したとおりに物事を進めて行くことを良しとしてきました。しかしながら人生には見通しが付かず、思ったように進まないこともあるものだということは、皆様もコロナ禍で痛感しておられるかと思います。
以前から、例えば企業派遣で駐在されている方とそのご家族に多い問題として、任期の見通しが立たないことを悩んでおられるお話もよく伺っております。しかしこの2年間はこのような先の見通しが立たない問題に加えて、いつ一時帰国出来るか分からない、いつ新型コロナウイルスに罹患するか分からない、いつ行動制限が発令されるか分からない等、コロナ禍特有の問題が加わりました。
こうした問題から、カウンセリングに来談される方には、何か先の見通しが立たないことに不安を抱え、常にこのことで頭が一杯になってしまっている方が比較的多いと感じています。カウンセリングにそのような方が来談された際は、詳しいお話を伺い現状の不安や悩みを受け止めた上で、いくつかのアドバイスをさせて頂いております。その方によってお伝えする内容に個人差はありますが、その一部をご紹介します。
1.今は一旦「先の見通しが立たない」というあるがままの現状を受け止めて過ごすと決める。
2.きちんと睡眠を取る。とりわけ就寝前、暗い部屋でスマートフォンを見ることを控える(ブルーライトを浴びることは睡眠の質を妨げると言われています)。
3.将来への不安や心配事は、ノートに書き出す時間を作ってアップデートして行き、四六時中これにとらわれないことを心掛ける。
4.今、ここでしか出来ない有意義な余暇活動の導入を試みる(語学、習い事、スポーツ、ボランティア等)。
5.マインドフルネス3)「今、ここでの経験に、評価や判断を加えるこ となく能動的な注意を向けること」に取り組む。
コロナ禍に限らず、いつ解決するか誰にも分からない、見通しが立たない問題は、多かれ少なかれ人生のどこかで経験すると思われます。そこでこの問題を「今はまだ、先のことが分からないけれど、いずれ時が来れば分かることだろうし、その時また考えよう。それまでは何とかなるか、何とかするか。」と考えてそっと横に置いておき、まずは「今」に注力して生きる、「ネガティブ・ケイパビリティ」をもって過ごすことは、実は日々心とからだが健康の内に過ごしていくための一策ではないでしょうか。冒頭では「長いトンネル」のお話をさせて頂きましたが、実は昔からよく言われている「時が解決する」「止まない雨はない」という言葉は、「ネガティブ・ケイパビリティ」の概念と共通するところがあると私は思っています。
しかしながら今、抱えている問題が深刻でその渦中にいる時は、お一人では決してこのように考えることが出来ず、その苦しみを抱えて過ごさざるを得ないこともあるかと思います。
このような時、母国語で相談出来るということが、ご自身の助けになる場合もあるかと思います。カウンセリングでは、少しでもご自身の心身の健康状態を改善するために、客観的な立場から今のご自身の状態について把握し、「ネガティブ・ケイパビリティ」を持ちつつ、どう過ごして行くことが出来るかについて一緒に考えて行くことが出来ます。微力ではございますが、当クリニックもその一助となればと思います。
<参考文献>
1) 帚木蓬生. ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力. 朝日選書, 2017, p. 3.
2) 有田伸. 特集・ウィズコロナ時代の労働市場 ネガティブ・ケイパビリティと新型コロナ感染という危機. 日本労働研究雑誌, No. 729, 2021, pp. 90-94.
3) 相賀ゆか. クリニックからの手紙 脳の筋トレ、マインドフルネスを習慣に.シンガポール日本人会, 南十字星12月号, 2020, p. 24.
プロフィール:原田舞香(はらだ まいか)
公認心理師・臨床心理士(日本臨床心理士資格認定協会)
大学心理学専攻卒業後、民間企業勤務を経て大学院修了。大学研究所、心療内科クリニック、リワーク支援機関、勤労者のメンタルへルス相談・研修講師を務める。2009年〜2015年中国在住。子育て支援、中医クリニック等の臨床経験を経て、2018年〜シンガポール日本人会クリニックに勤務(非常勤)。
近況:昨年より勤務の傍ら、在星邦人のメンタルヘルスに関する調査と支援の検討にも携わっています。プライベートでは、Tシャツ短パン姿が定着しました。